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【 從郡至倭 】の訳し方

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 5月22日(土)16時02分4秒
  【 後漢書 】辰韓伝
【 國出鐵 シ歳 倭 馬韓並從市之 】
国では鉄を産出
シ歳、倭、馬韓は互いにこれを交易す

【 魏志倭人伝 】
【 其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授 】
其六年 詔により郡を通して倭の難升米に黄幢を假授

シ歳 倭 馬韓あるいは【 郡 】が土地を示していないことは歴然としています。

【 從郡至倭 】の【 郡 】は、郡の人【 役人 】を意味します。

【 從郡至倭 】を訳す格好の文章が有りますので紹介しましょう。

--------------------

【 三國志 】卷三十 魏書三十 鮮卑
【 檀石槐既立 乃爲庭於高柳北三百餘里彈汗山啜仇水上 東西部大人皆歸焉 兵馬甚盛 南鈔漢邊 北拒丁令 東卻夫餘 西撃烏孫 盡據匈奴故地 東西萬二千餘里 南北七千餘里 罔羅山川 水澤 鹽池甚廣 漢患之 桓帝時使匈奴中郎將張奐征之 不克 乃更遣使者齎印綬 即封檀石槐爲王 欲與和親 檀石槐拒不肯受 寇鈔滋甚 乃分其地爲中東西三部 從右北平以東至遼 東接夫餘シ歳 貊爲東部 二十餘邑 其大人曰彌加 闕機 素利 槐頭 從右北平以西至上谷爲中部 十餘邑 其大人曰柯最 闕居 慕容等 爲大帥 從上谷以西至燉煌 西接烏孫爲西部 二十餘邑 其大人曰置 [ 革建 ] 落羅 日律推演 宴茘游等 皆爲大帥 】

それでは上の文章の次の部分を、どう訳しますか ?

①、【 從右北平以東至遼 東接夫餘シ歳貊爲東部 】
②、【 從右北平以西至上谷爲中部 】
③、【 從上谷以西至燉煌 西接烏孫爲西部 】

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http://wajin128.at.webry.info/

 
 

国文学者の【 誤訳 】

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 5月21日(金)18時14分1秒
  言うまでも無く【 魏志倭人伝 】は漢文で記載されています。

漢文で記載された【 魏志倭人伝 】を、なぜ国文学者が訳すのでしょうか理解に苦しみます。

言語類型論的に言えば中国語は【 孤立語 】、そして日本語は【 膠着語 ( 粘着語 )】に分類されます。

【 魏志倭人伝 】を訳した国文学者は、倭人伝を【 膠着語 ( 粘着語 )】として訳しています。

この他に中国語の特徴として語順があります。

中国語の語順の基本は【 主語+動詞+目的語 】、あるいは【 主語+述語 】の順になります。

たとえば岩波文庫の【 魏志倭人伝 】によれば【 從郡至倭 】を【 郡から倭に行くには 】と訳していますが、【 至 】を【 行くには 】と格変化させています。

つまり倭人伝を【 孤立語 ( 中国語 )】ではなく【 膠着語 ( 日本語 )】として扱っているのです。

その上【 至 】を動詞の【 行く 】としながら【 主語 】見当たりません。

完全な文法違反を犯しています。

【 到其北岸狗邪韓國 】
【 至對馬國 】
【 至一大國 】
【 至末盧國 】
【 到伊都國 】
【 至奴國 】
【 至不彌國 】
【 至投馬國 】
【 至邪馬壹國 女王之所都 】

また上の文章の【 至 】【 到 】は【 到着 】を表す動詞ですが、いずれも主語が記載されていません。

これらの文章を【 述語 】とした場合でも【 主語 】が必要になりますが、主語が見当たりません。

こうした【 誤訳 】の原因は、魏志倭人伝を日本語として訳したことによるものです。

国文学者は【 中国語 】を一切学ばずに魏志倭人伝を訳したのですから、その責任は重大です。

http://wajin128.at.webry.info/

 

国文学者の【 倭人伝 】訳

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 5月19日(水)17時30分2秒
  【 計其道里 當在會稽 東治之東 】

--------------------

岩波文庫【 魏志倭人伝 】では、次のように訳しています。

その道里を計ってみると、ちょうど會稽の東治 ( 福建省ピン侯 ) の東あたる。

--------------------

上の文章によれば、倭國と會稽の東治とは陸続きになってしまいます。

中国の福建省と倭國とが陸続きとは驚きです。

【 當 】を日本語に訳すと【 適合する 】です。

【 ○○ ( 基点 )】から【 會稽 東治の東に在 】までの【 道里 】と、帯方郡から女王國までの【 萬二千餘里 】とは【 適合 】する。

もう少し噛み砕いて説明すれば【 ○○から會稽 東治の東まで 】の道里を計って見れば【 萬二千餘里 】に等しい、という意味です。

基点の【 ○○ 】は、洛陽の都【 臺 】を指します。

魏志倭人伝は中国語で記載されています。

なぜ国文学者が中国語の【 倭人伝 】を訳すのでしょうか ?

漢文で記載されている文章を【 国文 】で訳すなど馬鹿げています。

ぜひ皆さんは国文学者が訳した文章などあてにせず、自ら中国語を学び魏志倭人伝を正しく訳すようにしてください。

http://wajin128.at.webry.info/

 

インチキ【 倭人伝 】訳

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 5月18日(火)13時55分57秒
  中国語は【 孤立語 】です、したがって格変化しません。

たとえば【 私は彼を愛している 】を中国語にすれば【 我愛他 】です。

そして【 私は彼を愛していた 】を中国語にすれば【 我以前愛他 】になります。

動詞【 愛 】は格変化しません。

したがって【 愛していた ( 時制 )】を含む場合は、動詞の前に【 以前 】を記述する必要があります。

【 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里 】

【 乍南乍東 】を反復 ( 繰返し ) 文と訳す者がいます。

【 乍南乍東 】を反復文と訳す人物は、中国語が【 孤立語 】であることを理解していません。

中国語を学ぶとき最初に教わるのが【 孤立語 】の意味です。

これを知らない人物は、中国語を学んだ経験が無いのです。

【 乍南乍東 】を反復文にするには【 重複乍南乍東 】と記載する必要があります。

http://wajin128.at.webry.info/

 

無学な者の【 倭人伝訳 】

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 5月16日(日)11時23分55秒
  外国語を訳した人物の【 訳文 】を見れば、その人物の実力を知ることが出来ます。

たとえば英文を訳した人物の実力を知りたければ、その人物が訳した原文と訳文を見れば一目瞭然です。

古田氏、安本氏、あるいは岩波文庫の魏志倭人伝訳を見れば、彼らは中国語を学んだ形跡がまるで見られません。

たとえば【 循海岸水行 】を三者とも【 海岸にしたがって水行 】と訳しています。

中国語の【 循 】の意味は【 踏襲に従う ( 前者に従う )】とあります。

今回は【 水行 ( 水の上を船で進む )】ですから、【 前の船に循い水の上を船で進む 】という意味になります。

三者が文字の意味を知らず、また調べもせずに訳したことが、これでわかります。

また【 從郡至倭 】を【 郡より倭に至る 】【 郡より倭に至るには 】などと訳しています。

中国語の基本的な語順は【 主語+動詞+目的 】です。

【( 主語 )郡+( 動詞 )至+( 目的 )倭 】となり【 郡は倭に至る 】と訳すことになります。

ところが三者の訳では【 至 】を動詞に訳しながら【 主語 】がありません。

また【 從 】を格助詞の【 より 】あるいは【 から 】と訳しながら【 至 】を動詞として訳しています。

中国語の文法では【 從 】を格助詞として訳した場合【 至 】は終助詞の【 まで 】と訳さなくてはなりません。

これを見れば三者が中国語の文法を学んでいないことは歴然としています。

その上【 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里 】は述語になっています。

中国語では【 主語+述語 】の順になりますが【 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里 】に主語がありません。

つまり文法違反の訳になっています。

こうした三者の訳が間違っていることに気付かないとしたら、中国語を基本から学ぶべきでしょう。

http://wajin128.at.webry.info/

 

神奈川徐福研究会について

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 5月12日(水)14時51分55秒
   神奈川徐福研究会では、拙著「消された古代東ヤマト」を読む会を開催しています。

 次回:5月19日(火)pm3~5時です
 場所:かながわ県民センター7F
 テーマ:「第3章 三遠地方の謎と不思議な伝承」

 連絡先:神奈川徐福研究会(神奈川日中友好協会内)Tel045-896-0124、Fax045-896-0125
 

聖書の暗号について

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 4月13日(火)16時17分17秒
   最近読んだ資料の中に、山口敏太郎タートルカンパニーの山口さんという人が、聖書の暗号を研究しているIさんという方にインタビューした記事があります。先日の千夜一夜の会の話と関連して、興味深いことが記載されていましたので、ピックアップしてご紹介します。

1.聖書の暗号の分析結果は、世の中の流れによって変化すると聞きますが?
  変化するという意味では、いろいろなものが入ってくるので、どのような情報がオープンになって、その情報に対して誰がどのように注目するかというところが重要です。明るい未来も、ジュセリーノの予言でいう(暗い)未来も聖書の暗号で全部再現できます。

2.意識が変わると未来は変わるということですか?
  そうです。意識を変えるのが、一番ですね。でも関係者や条件が積み重なって、自由に行動するのは難しくなります。大きなストーリーを描いて、その細部を決めることが必要になってきます。

3.聖書の暗号を研究する人は数多くいる。研究結果や解釈は違うことがあるのでしょうか?
  私が解読できる一番の理由は、ルールが判っているからです。違うルールを適用するのではなく、言葉を入れたら何でも出てくる。3,4,5文字と増えるほど確実な形で出てこなくなる。リミットは5文字だと思います。(有名人だけでなく一般人もでてきます。出なかった人はいません。)

4.そもそも旧約聖書とは、誰が書いたことになっているんですか?
  旧約聖書の大本になるのは、前文明で存在した宗教です。
  前文明の経典があの世にあり、その中に暗号を入れ込んで、この世でやり直しているのが、現在の旧約聖書です。

5.それは神が古代に降ろしたということですか。
  前文明ではゆがんだ宗教が存在して、光と闇がその経典を創って、闇の教えを含んだ(生贄などの)・・憎しみの宗教です。
  今回の文明を始めるために、カルマを超えるために改めてモーセにテレパシーで送ったということです。一字一句違ったら駄目になってしまうから、テレパシーで送る仕組みが重要です。それを彼は判っていたから、ユダヤ教の学者が一字一句違わずに3000年間問写してきたのです。

 以上は、興味あるところだけを取り上げたものですが、ずいぶん明快な見解がだされていますね。聖書の暗号は、確かに不思議な現象です。
 

意識についてのお話

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 4月 5日(月)14時32分9秒
  2010年4月17(土)には、サトルエネルギー学会春の大会が開催されます。
 http://www.subtle-eng.com/

 この中で、当MIXI会員も話をします。
 テーマ:意識が現象をつくる~意識科学研究会の使命~(前田豊)
 ここでは、
  意識(イメージング)が現象をつくる。未来に対するよいイメージをもち、その設計図をもち、みんなが思うことによって、未来は素晴らしいものに変わっていく!
 明治維新で、坂本龍馬は、日本に階級社会のない民主的日本の到来を計画したが、我々は今、地球維新の真っただ中にいる。
 意識の力(イメージ)によって、新たな光あるわくわくする世の中をみんなで創りましょう!

 と提言します。

 そのほか、次のような講演が用意されています。
1)胎内を記憶する子供たち(池川クリニック 池川明)
2)プチスピリチュアル子育て論(医療法人聖愛会 向後利昭)
3)潜在能力を生かし脳力を高める(飛谷こども研究所代表 飛谷ユミ子)
4)これからが本物の人生~大恐慌時代を越えて~(長瀬産業 小川修)
5)更年期障害は最高のプレゼント~素晴らしい林住期~(宮西ナオ子)
6)達者でポックリ~青雲の志について~(サトル会長 帯津良一)

サトルエネルギー学会 2010年春の大会は、次の要領で開催されます。
 日時:2010年4月17日(土)10:10開場、10:40開演
 場所:津田ホール(JR千駄ヶ谷南徒歩2分)
 懇親会もあります。

 詳細はサトルエネルギー学会事務局まで問い合わせください。
 〒108-0014 東京都港区芝4-6-2 若月ビル2F
        Tel03-5730-6450、Fax03-5730-6451
        http://www.subtle-eng.com/
 

岐阜県恵那神社のご祭神・天照大神の行方

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 3月26日(金)11時53分16秒
  MIXIの風月さんの次のコメントに触発されて、思い出したことを記録しておきます。
>恵那山はアマテラスの胎盤=胞衣(えな)が埋められてるし、ヤマトタケルも帰り道に通ってる。

 私も、以前(5~6年前)岐阜県中津川沿いの笠置山の麓のピラミッド石を見に行きました。その時、石に太陽神「卑弥呼の紋様」が刻印されているのを見つけました。同行してくれたのは、小牧の西山さんですが、尾張の「じょうこう寺」で私設博物館「卑弥呼の里」を構えておられます。

 ところで、恵那山は、アマテラスの胎盤を埋めたことに由来にしていますが、卑弥呼はアマテラスと呼ばれていたという説もあります。
 また、胎盤を埋めるところは、生誕地の真北の山といわれています。
 ということは、恵那山の真南に卑弥呼の生誕地があったのではと思われるのです。
 恵那神社のご祭神は、天照大神です。この神社に南に向いた不思議な遥拝所があり、石碑が建っており、神々はその方向に向かって行かれたという歌が彫られています。

 恵那山の南、売木の茶臼山を超えて南にいくと、東三河に到達します。
 東三河の豊川沿いに、アマテラス誕生との伝承をもつ地(豊津)があります。
 一般の歴史家には、とんでもない説だと思われるようですが、東海・中部地方の地名伝承をつないでいくと、東三河ヤマタイコク説が浮上します。
 この説もまんざらでもないようです。
  http://homepage2.nifty.com/kodaishinto/index.html
 

兵站と【 卑奴母離 】

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 2月21日(日)17時10分8秒
  【 卑奴母離 】が存在するのは、對馬國・一大國・奴國・不彌國の4カ國です。

また一大國と不彌國の両國のみ【 家 】と記載されています。

私は【 家 】とは簡単な造りで【 戸 】が無く、どこからでも出入りできる建物を想像しています。

この理由を【 卑奴母離 ( 夷守 )】の、いわばキャンプ地を想像しています。

一大國のキャンプは朝鮮半島と倭を結ぶ【 兵站 】を担い、不彌國のキャンプは奈良・河内と倭を結ぶ瀬戸内海の【 兵站 】を担っていたと考えます。

奈良と博多湾を結ぶ航路は、約二ヶ月と見られますが拠点の数は 60~70箇所に及んだと想像します。

伊都國は朝鮮半島と奈良を結ぶ、重要な要所にあります。

朝鮮半島の鉄や文化、南の沖縄からもたらされる貝輪、糸魚川のヒスイが各地で出土しますが、これら交易の担い手が【 倭 】だったと思われます。

そして交易を保障する軍隊こそが【 卑奴母離 】だったと見られます。

【 卑奴母離 】は瀬戸内海沿岸に点在する【 高地性集落 】と、密接なつながりが有ると想像しています。

対馬海峡と瀬戸内海を結ぶルートは、朝鮮半島から逃れてきた人々を、畿内に送り込むルートとしても活躍したと考えます。

大変わかり易いホームページがありますので、ご紹介しましよう。
http://www.yu-ji.com/kouchi.htm

http://www2.ocn.ne.jp/~wajin/

 

倭國の物的証拠

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 2月 3日(水)08時26分12秒
  倭國の証明に鐵鏃 ( 鉄のヤジリ ) は欠かせないでしょう。

北部九州、特に福岡平野・筑後平野・熊本平野から、大量の弥生時代の鐵鏃が出土しています。

日本には鐵鏃に使う鉄は無く、朝鮮半島から輸入するすしか無かったようです。

おそらく苦労して作った米を輸出し、鉄を輸入していたと思われます。

したがって鉄は、倭人にとって大変貴重な材料です。

そうした貴重な鉄で出来た鐵鏃を、土器のように簡単に捨てるでしょうか。

通常であれば溶かして再利用するはずです。

そうしなかったのは、戦闘で失われたからではないでしょうか。

つまりしなかったのでは無く、再利用できなかったと考えるべきでしょう。

実戦では様々なところに矢は飛んで行きます。

藪に入ったり木や人に刺さって取り出せなくなった物が、現代になって発見されるようになったと、考えるのが自然でしょう。

敵に打ち込んだ矢は、今度は敵の矢となって撃ち返される事になります。

つまり一本の矢が、何度も繰り返し使用されることになります。

こうして撃ったり、撃ち返されたりしている中に次第に数は減って行きます。

倭人は矢以外に、矛も武器として利用していると記載されています。

では何故、矛は出土しないのでしょうか。

それは戦闘が終わった後は、持ち帰ったからでしょう。

つまり失われた矢以外は、鉄として再生されたために出土しないとすれば、鉄の工具や農具はどうでしょう。

北九州には鐵鏃の出土数に見合った、剣や矛、鎌や鍬、カンナや鋸が大量に有ったと想像します。

こうした道具を使うことの出来る国家権力が、鐵鏃の埋まっていた周辺に居たと考えるのが自然でしょう。

そして鐵鏃の出土地域と、倭人伝に記載された道里、方位、戸数が見事に一致します。

これだけの歴史学と考古学の一致を見れば、熊本平野に邪馬台国が有ったと断言してもかまわないでしょう。

http://www2.ocn.ne.jp/~wajin/

 

【 倭奴國 】と【 狗邪韓國 】

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 2月 2日(火)15時04分59秒
  三世紀の【 國 】の意味は【 集落 】です。

したがって【 狗邪韓國 】とは【 狗邪の地域に住む韓人の集落 】という意味になります。

何故こうした面倒な記載を行ったかといえば、著書のタイトルが【 倭人伝 】だからです。

【 狗邪國 】と記載したのでは、読者は【 狗邪國 】を倭の一國と勘違いします。

そこで【 狗邪韓國 】と記載し、読者が誤った判断をしないようにしたのです。

その國 ( 集落 ) が倭人の場合は【 倭 】を記載しません。

たとえば對馬國を正確に記載するとすれば【 對馬倭國 ( 對馬の地域に住む倭人達 )】になります。

わかりきった事を省略するのは、漢文のルールです。

したがって【 倭 】の文字は除かれて【 對馬國 】と記載されます。

それでは本題の【 倭奴國 】と【 狗邪韓國 】とを比較してみましょう。

【 狗邪韓國 】の【 狗邪 】を地域と訳したように【 倭奴國 】の【 倭 】を地域と訳すと【 倭の地域に住む奴人の集落 】となります。

【 漢委奴國 】を【 漢の倭の奴の國王 】と訳した人物がいますが、トンデモナイ間違いです。

もし【 狗邪韓國 】を同じように訳すと【 狗邪の韓の國 】となり、狗邪の中に韓が存在するという奇妙な訳になります。

【 倭奴國 】も同様に【 奴の倭の國 】となり、奴の中に倭が存在する事になります。

【 倭奴國 】を正しくは【 ヤマトの國 】と訳します。

『後漢書』東夷傳 韓
【 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 】

【 倭奴國奉貢朝賀 】
( 訳 ) 倭奴國が貢物を捧げ朝廷を賀す

**********
が【賀】

1 喜び祝うこと。祝い。「米寿の―」
**********

韓國語では【 倭 】を【 ヤマト 】と読みますが、そうとう古い読みと見てよいでしょう。

**********
やまと【大和/倭】

旧国名の一。
五畿内に属し、現在の奈良県にあたる。
大和朝廷の発祥地で飛鳥(あすか)京・藤原京・平城京など
が置かれた。
もと「倭」と書いたが、元明天皇(在位期間:707年8月18日 -
715年10月3日)の時、「倭」と通じるとして「和」の字に「大」
をつけて「大和」と書くよう定めた 。
**********

倭を【 ヤマト 】と読むようになったのは、宗主國だった【 邪馬壹 】からとったものと考えます。

今後は【 倭奴國 】を【 倭の奴の國 】と訳さないようにしましょう。

http://www2.ocn.ne.jp/~wajin/

 

【 邪馬 】は【 山 】

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 2月 2日(火)08時00分28秒
  【 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 】
( 訳 ) 中国で化粧をするように、倭人は身体に朱丹を塗る

朱とは【 水銀朱 】そして丹とは【 ベンガラ 】と思われます。

【 水銀朱 】は自然界には希少で、倭人が日常使用していたのは【 ベンガラ 】と思われます。

【 其山有丹 】
( 訳 ) その山では、丹 ( ベンガラ ) を産出する

ここに記されている【 其山 】とは、其餘の 21國の一つ【 邪馬國 】と思われます。

熊本県菊池郡大津町から清正公道を進めば二重の峠 ( 阿蘇の外輪 ) に差し掛かります。

この峠を下れば【 肥後赤水 】に到着します。

この赤水から大量の【 阿蘇黄土 】が出土しますが、これを焼くと【 ベンカラ 】になります。

その山の【 丹 】とは、このことだと思います。

【 邪馬壹 ( ヤマト )】の名称は、この山の入り口に有ることから生まれたと想像しています。

つまりヤマトとは【 山戸 】だと思っています。

赤水・内牧の湯水は鉄分が多く、古代から沸き出し続けています。

その濃度は白いタオルを一週間もせずに赤く染めてしまうほどです。

おそらく【 ベンガラ 】は邪馬壹の貴重な収入源だったと思われます。

北部九州の甕棺からは、大量の水銀朱とベンガラが発見されています。

赤水から採取された【 阿蘇黄土 】から抽出したものと思われます。

また 21國の中に【 蘇奴國 】が記載されていますが【 園 ( その ) 國 】と思われます。

園とは、周囲を何かに囲われている【 特定の地域 】を指しますが、おそらく外輪山に囲われた阿蘇の盆地を指すものと思われます。

阿蘇は世界最大の複式 ( カルデラ ) 火山ですが、中央に阿蘇の五岳が走り、阿蘇谷を二分しています。

やはり 21國の中に【 對蘇國 】とありますが、【 對馬國 】を連想します。

【 對馬國 】は対馬上島と対馬下島が対になっている事から命名されたと思いますが、【 對蘇國 】も阿蘇谷を二分している五岳の南側の、南阿蘇を【 對蘇國 】、そして他方を【 蘇奴國 】と命名したと思われます。

このほかに【 躬臣國 ( クジュン國 )】は久住地方に比定したいと思っています。


∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵↓∵∵∵∵
┓∵∵∵┌─水行十日─投馬國◎久留米∵
~筑後川┼──────────────
~┗┓∵◎八女∵∵妻∵∵∵∵∵∵∵∵森
~~┗┓◎柳川∵森森森【 耳成山地 】森
~有~┃南∵∵森森森森森森森森森森森森
~明~┃至森森森森森森森森森森森森森森
~海~┃↓∵森森森森森森森森森森森森森
~~~┃陸∵∵森森森森森森森森森森森森
~~~┃行∵熊∵森森森森森森森森森森▲
~~~┃一∵本∵∵森森森森森森森森久住
~有~┃月∵平∵∵森森森森∵∵∵森森森
~明~┃↓∵野∵∵森森森∵∵∵∵∵∵森
~海~┃↓∵∵∵∵┌─⇒◎赤水∵∵阿蘇
~~~┃↓∵∵∵都◎∵森▲▲▲▲▲五岳
~~~┃邪馬壹國∵│∵森∵∵∵∵∵∵∵
~~~┃◎熊本市─┘∵森森∵∵∵森森森
~~┏┛∵∵∵∵∵森森森森森森森森森森
~~┃∵∵∵森森森森森森森森森森森森森
~~球磨川───────────森森森
~~┃∵∵∵∵∵森森森森森森森森森森森
~~┃∵狗奴國∵森森森森森森森森森森森
~~┃∵∵∵∵∵森森森森森森森森森森
~~┃八代平野∵森森森森森森森森森森

http://www2.ocn.ne.jp/~wajin/

 

【 後漢書 】と矛盾

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 2月 1日(月)14時11分12秒
  【 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 】
( 訳 ) 建武中元二年 ( 57年 )
_ _ _ _ 倭奴國の使者 自称大夫が貢物を捧げて朝賀におよぶ
_ _ _ _ 倭奴國は倭國の最南端に在るという

【 其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 】
( 訳 ) その南に狗奴國が有る
_ _ _ _ 男性の王が治め、女王には属せず
_ _ _ _ その官を狗古智卑狗と言う

倭國とは【 倭人の集落 】という意味です。

また倭奴國とは【 倭 ( ヤマト ) 奴 ( の ) 人の集落 】という意味です。

倭奴國とは魏志倭人伝の【 邪馬壹國 】と考えて間違いないでしょう。

【 世有王 皆統屬女王國 】
( 訳 ) 伊都國には代々王が治めていた、皆女王國に統属す

この文章によれば【 邪馬壹國 】が倭國全体を治めていたことになります。

そして後漢書に倭奴國 ( 邪馬壹國 ) は最南端に在ると記載されていますが、魏志倭人伝では、邪馬壹國の南に更に【 狗奴國 】が在るとなっています。

つまり【 邪馬壹國 】は倭國の最南端では無くなっています。

この理由は【 狗奴國 】が亡命政府である可能性を示しています。

卑弥呼以前は男性の王が 70~80年治めたとあります。

おそらく女王の共立によって、男性の王は逃亡し人吉あるいは八代付近に亡命政府を樹立したものと思われます。

~~┃∵∵∵∵楽浪郡∵∵∵∵∵∵┃~~
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~~┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~┌◎帯方郡庁∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
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~└┐┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵帯方郡の領土∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~┌┘┣━━━━━━━━━━━┳┛~~
~↓┏┛∵∵∵∵韓の領土∵∵∵┃~~~
~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~~
~↓┃∵方可四千里∵狗邪┏━━┛~~~
~↓┃∵∵∵∵∵┏━◎━┛~~~~~~
~↓┃∵┏━━━┛┌┤~┏┓~~~~~
~↓┗━┛┌→→→┘↓~┃┃~~~~~
~└→→→┘~~~~↓┏┛┃~~~~~
~~~~~~~對馬國├①┏┛~~~~~
~~~~~~~~~~↓┗┛対馬下島~~
~~~~~~~~~~↓┏┓~~~~~~
~~~~~~~一大國├②┛壱岐~~~~
~~~~~~~~~~↓~~~~~~~~
~~~~~~~~~~↓~┏━┓~┏━━
~~~~~~~~┏┓↓┏┛∵┗━┛⑥∵
~~~~┏━━━┛∵↓∵∵∵∵∵/↓∵
~~~┏┛∵∵∵∵∵③→→④→⑤∵不∵
┏━━┛∵∵∵∵∵∵末∵∵伊∵奴∵彌∵
┛∵∵∵∵倭國∵∵∵盧∵∵都∵國∵國∵
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵國∵∵國∵∵∵↓∵
∵∵┏━┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵南∵
∵┏┛~┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵至∵
┏┛~~~┗┓∵∵┌←←投馬國⑦←┘∵
┃~~~~~┃金∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~~~~~┃峰∵南∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~有明~~┃山∵至∵∵∵∵∵∵▲阿蘇
┃~~~~~┃▲∵└→→→→→⑧∵∵∵
┃~~~~~┃∵∵∵∵∵∵∵∵邪馬壹國
┃~~~~~┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~~~~~┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~~~~~┃∵◎狗奴國 ( 亡命政府 ) ∵

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韓は【 方可四千里 】

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 2月 1日(月)10時00分6秒
  『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳 韓
【 韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里 】

韓伝に、韓は【 方可四千里 】と記載されています。

では韓の大きさを計算して見ましょう。

その前に【 方 】の意味について、中国の辞典に何と記載されているか見てみましょう。
**********

方 - 龍維基
http://www.longwiki.net/%E6%96%B9

**********

【 方 】とは【 正方形 あるいは 六面の立方体 】と記載されています。

また方言全集には【 方 】の意味は【 円 】とあります。

よく言われるように【 方 】の意味は【 正方形の一辺 】ではありません。

中国のどの辞書を見ても【 正方形の一辺 】と記載されたものは有りません。

かつて【 方 】の意味が【 円 】だった事を証明する文書があります。

『漢書』 卷二十八下地理志第八下(抄) 自呉至黄支
【 自合浦徐聞南入海 得大州 東西南北方千里 武帝元封元年略以為tan[扁イ旁右憺]耳  】

【 得大州 東西南北方千里 】とは、南シナ海に在る【 南海島 ( ハイナンタウ )】の事です。

この島の大きさは【 東西南北方千里 ( 東西・南北を合わせて千里、その円周 )】という意味です。

もし【 方 】の意味が【 正方形の一辺 】とすれば【 東西南北 】の記述は無用です。

【 南海島 】は楕円形の島です。

おそらく東西【 600里 】、南北【 400里 】の比率になると思われます。

十文字の先端を結ぶ楕円が【 千里 】ということになりますが、千里の半分【 500里 】にすれば、まん丸な円になります。

直径【 500里 】の更に半分は【 250里 】です。

円面積=半径×半径×3.14

上の式に【 250里 】を代入すれば、海南島の面積が得られることになります。

漢の一里は 410m ( 0.41km ) です。

海南島の面積=( 250里×0.41km )×( 250里×0.41km )×3.14=32,989k㎡

実際の海南島の面積は 32,200k㎡ですから、その違いはわずかです。

海南島 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%8D%97%E5%B3%B6

ついでに一大國の【 方可三百里 】の大きさも計算して見ましょう。

郡をソウル、狗邪韓國を後の伽耶國として泗川に比定すれば、その間の海岸線の長さは 963.87kmになります。

この間を【 七千餘里 】とすれば、倭人伝に記載されている一里は 137mになります。

直径=方可三百里×0.137÷3.14=13.1km
半径=6.5km

壱岐 ( 一大國 ) の面積=6.5km×6.5km×3.14=134.49k㎡

実際の壱岐の面積は、133.81k㎡ですから見事に一致します。

それでは本題の韓の【 方可四千里 】を計算して見ましょう。

四千里×0.137km=548km

円周 548kmの円面積は 23,909k㎡になります。

全羅北道 8,050K㎡
全羅南道 11,955K㎡
慶尚南道 10,518K㎡
_ _ 合計 30,523K㎡

全羅南道および慶尚南道は大小様々な島をかかえていますが、これらの島を除けば 23,909k㎡ほどになります。

つまり韓は【 全羅道+慶尚南道 】と見なされます。

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熊本平野の理由

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 1月31日(日)12時00分15秒
  熊本平野に邪馬台国 ( 邪馬壹國 ) を決定した理由を説明します。

1、不彌國からの道里

不彌國から邪馬壹國までの道里は 1,300里ですが、現在の距離にして約 180kmです。

博多湾から南に向かって 180km進めば、熊本平野にたどり着きます。

2、戸数からの推測

奴國の【 二萬餘戸 】の南に投馬國の【 五萬餘戸 】が在り、更にその南に邪馬壹國の【 七萬餘戸 】が在ると記載されています。

奴國の耕作地を福岡平野全域とした場合、投馬國は【 福岡平野の 2.5倍 】そして邪馬壹國は【 福岡平野の 3.5倍 】になります。

福岡平野の南に在りしかも三つもの連続した平野となれば、筑後平野そして熊本平野以外には見当たりません。

3、鐵鏃の出土

福岡平野・筑後平野・熊本平野から弥生時代の、大量の鉄のヤジリが出土しています。

これはこの地域で激しい抗争が行われたことを物語っています。

弥生時代の鉄は大変な貴重品ですから、使えなくなったとしても土器のように捨てたりはしません。

溶かして再利用したと考えます。

熊本平野では弥生時代の目覚しい発見は有りませんが、そうした地域から何故これ程の鉄のヤジリが出土するのでしょう。

弥生時代の戦闘は接近戦ですから、当然その周辺に巨大な権力が有ったと想像されます。

全くそうした遺跡等が出土しないということは、かつて在った権力や文明が他に移動して行ったと考えられます。

【 鐵鏃 】の出土は、その周辺を支配していた権力の残骸といえます。

4、大津町は最東南端に在る

後漢書倭人伝には、次の文章が記載されています。

【 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 】

この文章によれば【 倭奴國は倭國の極南界也 】とあります。

当時の方位は、反時計回りに 45度のずれがあります。

したがってここに記された方位、南は東南になります。

福岡平野・筑後平野・熊本平野の最東南端は熊本県大津町になります。

大津町の東南は九州山地となり、集落をつくれるような地域はありません。

大津から見た阿蘇は当時の方位でいえば、東になります。

また西には有明海が在り、集落は有りません。

したがって【 倭國之極南界也 】という意味は、熊本県大津周辺を指すと考えられます。

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【 都 】の音は【 ツ 】

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 1月31日(日)08時35分53秒
  【 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 】
( 訳 ) 南の邪馬壹國の都まで 水行十日 陸行一月 で到着
_ _ _ _ ここは女王の住まう所

使者は久留米付近に在った投馬國官邸を後に、筑後川を下って八女市付近に到達した後、、船を降りて陸路を移動しています。

なぜ【 水行 】から【 陸行 】に変更したのか、不思議に思う人もいるかも知れませんが、九州の地図を開いていただければ、すぐに納得して頂けると思います。

八女付近から南下しようとすれば、河川を利用する事はできません。

八女~熊本市までの河川は、全て東の山側から西の有明海に向かって流れています。

つまり使者は河川をまたぐ形で進む事になります。

もちろん筑後川を下って有明海に出れば、海岸水行で南下することは可能です。

しかしその場合、人々に【 贈物 】を示す事はできなくなります。

そこでやむなく水行から陸行に変更せざるを得なかったと想像します。

【 水行十日 陸行一月 】とは【 水行十日 】の後で【 陸行一月 】と訳します。

漢文には【 句読点 】がありません。

したがって書き順には厳しい制約が負わされています。

書き順に従わずに訳した場合は、著者が意とした文章にならないからです。

水行陸行を混同させる場合は【 或水行或陸行 】もしくは【 水陸行四十日 】と記載します。

筑後川流域に【 五萬餘戸の投馬國 】が在ったとし、その東南に【 七萬餘戸 ( 奴國の 3.5倍 )】もの戸数を養える平野とは、熊本平野を置いて他に無いでしょう。

【 都 】を【 みやこ 】と訳した人物がいます。

その根拠はどこに有るのでしょうか。

魏志倭人伝は言うまでも無く魏の使者の報告を基に編集されています。

魏の使者にとって【 都 】とは【 洛陽の都 】を指します。

そうした立派な都が三世紀の日本に存在したという証明が出来るでしょうか。

証明も無しに【 都 】を【 みやこ 】と訳してよいのでしょうか。

【 バカタレ 】とでも言っておきましょう。

女王の住む【 都 】とは【 津 ( ツ )】の事だと思われます。

【 津 】とは【 人で賑わう港 】と言う意味です。

私は【 都 】を熊本県大津町に比定しています。

福岡平野、筑後平野、熊本平野から大量の【 鐵鏃 】が出土しています。

【 鐵鏃 】の多さを誇って【 九州説 】を唱える、オッチョコチョイな人物もいますが、【 鐵鏃 】の出土数が少ないからといって、【 鐵鏃 】が無かったとは言えないでしょう。

当時、鉄は大変に貴重な素材です。

したがって土器のように破損したからといって捨てたりはしません。

もう一度溶かして再利用するに決まっています。

九州以外から【 鐵鏃 】が出土しないのは、激しい戦闘が行われなかった為と考えています。

つまり福岡平野、筑後平野、熊本平野から大量に出土する【 鐵鏃 】は、おそらく【 倭國亂 相攻伐歴年 】で使用された物と判断しています。

つまり福岡平野、筑後平野、熊本平野に奴國、投馬國、邪馬壹國が存在した証といっても良いでしょう。


∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵↓∵∵∵∵
┓∵∵∵┌─水行十日─投馬國◎久留米∵
~筑後川┼──────────────
~┗┓∵◎八女∵∵妻∵∵∵∵∵∵∵∵森
~~┗┓◎柳川∵森森森【 耳成山地 】森
~有~┃南∵∵森森森森森森森森森森森森
~明~┃至森森森森森森森森森森森森森森
~海~┃↓∵森森森森森森森森森森森森森
~~~┃陸∵∵森森森森森森森森森森森森
~~~┃行∵熊∵森森森森森森森森森森森
~~~┃一∵本∵∵森森森森森森森森森森
~有~┃月∵平∵∵森森森森∵∵∵森森森
~明~┃↓∵野∵∵森森森∵∵∵∵∵森森
~海~┃↓∵∵∵∵┌─⇒◎赤水∵∵∵∵
~~~┃↓∵∵∵都◎∵森∵∵∵∵▲阿蘇
~~~┃邪馬壹國∵│∵森∵∵∵∵∵∵∵
~~~┃◎熊本市─┘∵森森∵∵∵森森森
~~┏┛∵∵∵∵∵森森森森森森森森森森
~~┃∵∵∵森森森森森森森森森森森森森
~~球磨川───────────森森森
~~┃∵∵∵∵∵森森森森森森森森森森森
~~┃∵狗奴國∵森森森森森森森森森森森
~~┃∵∵∵∵∵森森森森森森森森森森
~~┃八代平野∵森森森森森森森森森森

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【 投 】の音は【 ヅ 】

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 1月30日(土)19時48分42秒
  韓国語で投馬は【 ツマ ( 'tu ma )】と読みます。

中国語では投は【 トゥ ( tou2 )】と読みます。

日本語の場合、呉音では【 ズ 】そして漢音では【 トゥ 】です。

中国の辞典に【 投 】は【 会意文字 】と記載されていますが、会意文字と形声文字との混同は良く有ることです。

そこで【 投 】を形声文字と見て【 殳 】を調べてみました。

【 殳 】の音は【 ス ( shu1 )】とありますが【 ツ 】に良く似た発音になっています。

呉音は日本に最も古くから用いられている、文字の読みです。

例えば【 投馬 】の読みが【 ツマ 】だったとすれば、【 對馬 】となり對馬國と等しくなってしまいます。

そこで呉音で【 投馬 】を読むと【 ヅマ 】になります。

かつて久留米~八女一帯を【 妻 ( 上妻・下妻 )】と記載されていますが、この読みは【 ツマ 】では無く【 ヅマ 】だったと想像しています。

【 吾妻鏡 】の読みと同じく【 ヅマ 】だったとすれば、【 對馬國 】は久留米~八女市付近に比定されます。

【 南至投馬國 水行二十日 】
( 訳 ) 南の投馬國に 水行二十日 で到着。

水行とは【 河川を船で移動 】することをいいます。

例えば長江最大の支流を【 漢水 】、あるいはアムール川を【 黒水 】と呼びます。

中国では【 河川 】を【 水 】と読み替える習慣があります。

日本語で【 水中 】とは【 水の中 ( 潜る )】意味になりますが、中国では湖面や川面の中心付近をいいます。

使者は博多湾に在った不彌國から河川を、遡って大宰府方面に向かったと思われます。

大宰府の東に宝満山が在ります。

この山を源流とする二つの川がありますが、一つは大宰府を通って北に流れ博多湾にそそぐ【 御笠川 】です。

もう一つは、やはり大宰府を通って南へ流れ久留米付近で筑後川と合流し有明海にそそいでいます。

おそらく使者は、この二つの川を利用して、投馬國の中心地 ( 官邸 ) 久留米に到着したものと思われます。

對馬國には【 五萬餘戸 】の家が有ると記載されていますが、奴國の 2.5倍もの戸数です。

これだけの戸数を賄う耕作地 ( 福岡平野の 2.5倍 ) を探すとすれば、筑後川流域以外に想像がつきません。

奴國あるいは投馬國の住民に【 贈物 】を示しながら、投馬國の中心地 ( 官邸 ) に到着したと考えます。

投馬國の官は【 彌彌 】副は【 彌彌那利 】と記載されていますが、韓国語で【 mi ( 彌 )】とは、米を指します。

【 彌彌 】【 彌彌那利 】とは、稲作を管理する役目を負っていた人物と思われます。


森森森森森森森森森森森森森森森森∴∴水↓
森森森森森森森森森森森森森森森森∴∴行↓
森森森森森森森森森森森森森森森森∴∴二↓
森森森森森森森森森森森森森森森∴∴∴十↓
森森森森森森森森森森森森∴∴∴∴∴∴日↓
∴∴∴∴∴∴森森森∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵↓
◎吉野ヶ里∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵投馬國↓
∴∴∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┌←◎┘
━┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┌←┘久留米
~┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵┌←←┘∵∵∵∵∵
~~┃∵筑後川∵┌←←┘∵∵∵∵∵∵∵∵
有~┠┌←←←←┘∵旧地名妻∵∵∵∵∵∵
明~┃水行十日で至∵∵∵∵∵∵∵∵森森森
海~┃◎∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵森森森森森森
~~┃八女∵∵∵∵∵∵森森森森森森森森森
~~┃↓∵∵∵∵∵森森森森森森森森森森森
~~┃↓∴∴∴森森森森森森森森森森森森森
~~┃至∴森森森森森森森森森森森森森森森
~~┃邪∴森森森森森森森森森森森森森森森
~~┃馬∴森森森森森森森森森森森森森森森
~~┃壹∴森森森森森森森森森森森森森森森
~~┃國∴森森森森森森森森森森森森森森森
~~┃↓∴森森森森森森森森森森森森森森森

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奴國の【 面積 】

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 1月30日(土)14時55分18秒
  【 東南至奴國百里 】
( 訳 ) 東の奴國に百里で到着

百里とは約 14kmです。

福岡県前原市三雲 ( 伊都國の中心地 ) から東へ 14km 向かったとすれば、大濠公園付近に到着します。

おそらく奴國の中心地は、この付近に在ったと思われます。

奴國には【 二萬餘戸 】の家が有ると記載されています。

当時は自給自足の生活を行っています。

【 種禾稻 紵麻 蠶桑緝績 出細紵○緜 】
( 訳 ) 稗・粟・稲を植え、桑を育てて蚕を飼い細い糸で薄絹の布を編む。

【 倭地温暖 冬夏食生菜 】
( 訳 ) 倭の地は温暖で冬でも生野菜を食べる。

【 以木緜招頭 其衣横幅 】
( 訳 ) 頭に木綿を巻きつけ、横広の衣をまとう。

以上の文章から、倭人は様々な栽培を行っていたようです。

一戸当たりの平均居住者数は、4~5人ていどと見られています。

すると一戸当たりの消費カロリーから計算される耕作面積は、70m×70m程度と考えられます。

また当時の米の収穫量は現在の半分 ( 65g ) と見られています。

奴國の【 二萬餘戸 】に必要な耕作面積は、約 100k㎡になります。

この面積は福岡平野全面積に等しい広さになります。

つまり奴國は福岡平野全域に比定される事になります。

使者は奴國の中心地、大濠公園から不彌國に向かう事になりますが、気になる文章があります。

【 東行至不彌國百里 】

【 行至 】の【 行 】も【 至 】も動詞です。

【 行至 】のように動詞が続いた場合、中国語では熟語になります。

熟語の【 行至 】の意味は【 ・・ とすれば 】といった仮定の文章になります。

つまり【 東行至不彌國百里 】を訳すと【 東北に百里行けば不彌國に到着 】となります。

なぜ著者は【 行至 】と記載したかといえば、その理由は次の【 南至投馬國 】の文章にあります。

使者が一旦不彌國に向かったとしても、南に在る投馬國に行く為には、もう一度奴國に戻り、博多湾から大宰府に向かって奴國を縦断する必要があります。

そこで【 行至 】と記載せざるを得なかったのです。

この辺の文章を細かく見てみましょう。

奴國の官邸 ( 大濠公園 ) に到着した使者は【 東北に向かって百里 ( 14km ) 進んだ 】とします。

大濠公園から東北に 14km 行った付近は香椎になります。

不彌國とは【 海國 】と考えています。

この不彌國の官の名称は【 多模 ( タモ )】と記載されていますが、【 網 ( タモ )】ではないかと想像しています。

つまり官の【 多模 ( タモ )】とは、網元のような存在で博多湾で網漁を生計としていた集団と思われます。

奴國は【 二萬餘戸 】の大國です、その隣國にありながら独立していたのは、不彌國が漁労國だったためと考えられます。

奴國の副に【 卑奴母離 】がいます。

おそらく卑奴母離とは【 夷守 】のことだと思われますが、現在の国境守備隊のことです。

国境守備隊は國の中心地から遠く離れた、倭の外周部に配置されていたと思われます。

つまり奴國は女王國の周辺國と思われます。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
━┓~~~~~~~~~~~~~~~~~
∴┗┓~~~~~~~志賀島▲━┓~~~
∴∴┃~~~~~~~~~~┗┓┗┓~~
∴∴┃~~~~~~~~~~~┗┓┗┓~
∴∴┗┓~~~~~~~~~~┏┛∴┗━
∴∴∴┗┓~~博多湾~~~┏┛∴∴森森
∴∴∴∴┗━┓~~~┏◎━┛∴∴森森森
∴∴∴∴∴∴┗━┯━┛不彌國∴∴森森森
◎伊都國∴∴∴◎奴國∴∴香椎∴∴∴森森
∴三雲∴大濠公園└┐∴∴∴∴∴∴∴森森
森∴∴∴∴∴∴∴∴└┐∴∴∴∴∴∴森森
森森森∴∴∴∴∴∴∴└┐∴∴∴∴∴森森
森森森森∴∴福岡平野∴↓御∴∴∴∴森森
森森森森森∴∴二萬餘戸↓笠∴∴∴森森森
森森森森森森∴∴∴∴∴↓川∴∴∴森森森
森森森森森森森∴∴∴∴└┐∴∴森森森森
森森森森森森森森∴∴∴∴↓∴∴∴森森森
森森森森森森森森森∴∴∴▲大宰府∴森森
森森森森森森森森森森∴∴↓∴∴▲宝満山
森森森森森森森森森森森∴↓∴森森森森森
森森森森森森森森森森森┌┘∴森森森森森
森森森森森森森森森∴┌┘宝∴∴森森森森
森森森森森森森∴∴┌┘満∴∴∴森森森森
森森森森∴∴∴∴∴↓川∴∴∴∴∴森森森

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【 方位 】の不記載

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 1月30日(土)12時42分29秒
  【 又渡一海千餘里 至末盧國 】
( 訳 ) また一海を渡り末盧國に到着

一大國から見た末盧國の方位が記載されていません、この理由について私見を述べたいと思います。

その前にもう一つ方位の記載が省略されている、郡から狗邪韓國についても同時に考えて見ましょう。

【 方位 】の記載が行われている國の場合【 官 】の記載が見られます。

私は両者には密接なつながりが有ると考えています。

官の住む【 官邸 】は、その國の中心地に置かれていたと想像します。

末盧國には官名が記載されていないことから、末盧國に國の中心となるような地域が存在しなかったと思われます。

つまり倭人伝に記載されている至あるいは到の【 方位 】とは、各國の中心地 ( 官邸 ) を指し示していると考えられます。

さきほど述べた狗邪韓國の場合は國の中心地では無く、狗邪韓國の海岸に到着したと有ります。

したがって【 方位 】が記載されていません。

【 末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 】

末盧國の四千餘戸の人々は、山が海に迫った狭い海岸に住むと記載されています。

また使者は草木が生い茂って、前を行く人の姿さえ見えないほど、厳しい移動を強いられたと述べています。

末盧國の四千餘戸の人々は海辺に住まうのですから、船で移動すれば良いものを何故わざわざ苦労して陸地を移動したのでしょうか ?

このことは大変重要な問題です。

【 其年十二月 詔書報倭女王曰 制詔親魏倭王卑彌呼 】
_ _ _ _ 親魏倭王卑彌呼に詔により制約す。

この詔書の中で次のように述べられています。

【 皆裝封付難升米 牛利 還到録受 】
( 訳 ) ( 贈物 ) すべてを包装し泥封に印を付けておく。
_ _ _ _ 難升米 牛利 が帰國したら、その目録を受け取りなさい。

一般に【 録受 】を【 贈物を受け取れ 】と訳していますが間違っています。

【 録受 】の【 録 】とは【 記録 】または【 抄 ( 一部の抜書き )】のことです、したがって【 目録 】のことをいいます。

また皇帝からの贈物を頂く際は【 賜 】と記載され、間違っても【 受 ( 受領 )】の文字は使用されません。

これは古代史を読み解く際の基本中の基本です。

こんな簡単な文章を【 誤訳 】するようでは、魏志倭人伝を和訳する資格は無いでしょう。

【 悉可以示汝國中人使知 國家哀汝 故鄭重賜汝好物也 】

上の文章は重要ですので、二つに分けて訳すことにします。

【 國家哀汝 故鄭重賜汝好物也 】
( 訳 ) 我が国は貴方に感謝 ( 哀 ) している。
_ _ _ _ 故に貴方の希望 ( 好物 ) した品々を鄭重に差し上げる。

【 悉可以示汝國中人使知 國家哀汝 】
( 訳 ) 使者を遣わし貴方の国の人々に ( 贈物の ) 悉くを示し、
_ _ _ _ 我が国が貴方に感謝している事を示したい。

【 哀 】は、君主が臣下に対して【 感謝の気持ち ( いとおしく思っている )】を表す文字です。

【 正始元年 太守弓遵遣建忠校尉梯儁等 】
( 訳 ) 正始元年 帯方太守弓遵は、梯儁を倭に派遣す。

倭國への使者として【 梯儁 】が旅立つことになります。

贈物を全ての倭人に示してまわるのが【 梯儁 】の重要な役目です。

魏は倭と同盟を結び、朝鮮半島の経営の安定化を狙っています。

呉は盛んに朝鮮半島や倭に使者を送り、魏の北方を脅かそうとしています。

公孫氏の裏切りによって魏は大変な危機を迎えましたが、倭の協力によって危機を回避できたと思われます。

この件の詳細は後の書き込みで紹介します。

ともかく【 梯儁 】は末盧國の四千餘戸を訪ね歩き、贈物を示したと考えられます。

ではなぜ船で移動せずに歩いたのでしょうか ?

【 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之 】

末盧國の人々はアワビ漁によって生計を立てていたようです。

アワビは岩場に生える海草を餌として育ちます。

つまり末盧國の海は岩礁だらけの危険な海です。

また上陸の際に岩場のコケなどで手を滑らせて、貴重な贈物に傷つけたり海に落とす危険があります。

こうした危険を避けるために、苦痛を我慢して陸地を進んだものと考えます。

おそらく使者は伊万里湾の入り口付近で船を降り、湾内を一周して玄海町付近に到着し、玄海町から次の訪問地、伊都國に向かったと想像します。

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倭人伝の【 方位 】

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 1月30日(土)09時43分17秒
  現在の地図上の方位と、倭人伝に記載されている方位とを比較して見ましょう。

【 又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 】
( 訳 ) また南の一大國まで一海を渡り千餘里で到着
_ _ _ _ _ 海の名を瀚海と言う

對馬國から見た一大國の方位は【 南 】と記載されています。

對馬國を【 対馬下島 】、一大國を【 壱岐 】に比定した場合、対馬下島から見た壱岐の方位は南では無く【 東南 】に在ります。

つまり魏志倭人伝に記載されている方位は、現在の方位と比較すると【 反時計回りに 45度 】のズレが生じます。

【 女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 】
( 訳 ) 女王國の東に海を渡り千餘里行った所に復國が有る。
_ _ _ _ _ すべて倭人と同種族

女王國から船出するとすれば、伊都國から東に向かったと思われます。

伊都國を現在の糸島とした場合、東には渡海できるような海はありません。

おそらく倭種の住む國とは山口県の南岸と思われますが、この場合の方位は東では無く【 東北 】になります。

ここでも前回と同様に【 反時計回りに 45度 】のズレが生じています。

つまり魏志倭人伝に記載されている方位を、現在の地図上に置き換える場合は【 南⇒東南 】【 東南⇒東 】【 東⇒東北 】と読み替える必要があります。

王維 の詩で名高い【 陽関 】があります。

君に勧む更に尽せ一杯の酒
西のかた陽関を出ずれば故人無からん

前漢に関所が置かれ玉門関の南 ( 陽 ) にあったことから、陽関と名付けられましたが、この陽関も玉門関の南では無く【 東南 】にあります。

『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳 魏略西戎傳曰:
【 澤散王屬大秦 其治在海中央 北至驢分 水行半歳 風疾時一月到 】

ここに記載されている【 大秦 】とは、ローマ帝国のことです。

そして【 水行半歳 風疾時一月到 】とは【 紅海を南から北へ向かう日数 】を言います。

【 北至驢分 】の【 驢分 】はスエズ運河の出口付近に在った國です。

アデン湾から紅海を地中海に向かった場合、北では無く【 西北 】になります。

こうしてみると古代中国の人々の方位は、どこをとっても【 反時計回りに 45度 】程ずれていたようです。

『後漢書』倭人伝
【 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 】
( 訳 ) 建武中元二年 ( 57年 ) 倭奴國の自称 大夫 は貢物を捧げて朝賀す
_ _ _ _ _ 倭奴國は倭國の最南端に位置する。

倭奴國とは【 邪馬壹國 ( ヤマトの國 )】のことです。

つまり【 邪馬壹國 ( ヤマトの國 )】は倭國の最南端に在ると記載されています。

魏倭人伝に其餘の國として 21國が列記されています。

そして邪馬壹國の南には【 其南有狗奴國 】と記載されていますから、21國は邪馬壹國の東か西に存在した事になります。

九州の地図を見て頂ければわかりますが、阿蘇以南は山脈に阻まれてとても人が住めるような状態ではありません。

集落を作るとすれば熊本平野の南部、菊池郡付近が限界でしょう。

おそらく【 極南界也 】とはこの事を述べているものと思われます。


~~│∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵│~~
~~│∵∵∵∵楽浪郡∵∵∵∵∵∵│~~
~~├─────────────┤~~
~~│∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵│~~
~~└┐∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵│~~
~~┌←◎帯方郡庁∵∵∵∵∵∵∵│~~
~~↓│∵∵ソウル ∵∵∵∵∵∵∵~~
~~↓│∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵│~~
~~↓│∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵│~~
~~↓│∵∵∵帯方郡の領土∵∵∵│~~
~~↓│∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵│~~
~~↓│∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵│~~
~┌┘├───────────┬┘~~
~↓┌┘∵∵∵∵韓の領土∵釜∵│~~~
~↓│∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵山┌┘~~~
~↓│∵∵∵∵∵狗邪┐∵┌◎┘~~~
~↓│∵∵∵∵∵┌─◎泗川~~~~~~
~↓│∵┌───┘┌◎勒島~ ┌┐~~~
~↓└─┘┌→→→┘~\~~ ││~~~
~└→→→┘七千餘里 ~~\┌┼┘~~~
~~~~~~~~~~ 對馬國◎┘~~~~
~~~~~~~~~~~~~~ \┌┐~~
~~~~~~~~~~~~ 一大國◎┘~~
~~~~~~~~~~~~~~~/~~~
~~~~~~~~~~~~~~◎末盧國

http://www2.ocn.ne.jp/~wajin/

 

渡海の【 測量技術 】

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 1月29日(金)08時27分9秒
  【 一海 千餘里至對馬國 】
【 又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 】
【 又渡一海千餘里 至末盧國 】

ご覧のように【 狗邪韓國⇒對馬國 】【 對馬國⇒一大國 】【 一大國⇒末盧國 】の移動すべてが【 千餘里 】と記載されています。

狗邪韓國を【 泗川 】、對馬國を【 対馬下島 】、一大國を【 壱岐 】、末盧國を【 伊万里湾 】に比定した場合、各区間の距離は全て異なります。

いったい渡海の距離を倭人はどうやって計ったのか、見てみましょう。

渡海の距離を一般には次のように測定しています。

∵A地点∵∵∵∵∵∵∵ B地点∵∵
∵│←───千里──→│∵∵∵∵
━◎━━━━━━━━━◎━━━━
~│←──T 時間──→│~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~

A地点~B地点まで【 陸路 千里 】のところを、船で行ったところ【 T時間 】かかるとします。

【 狗邪韓國⇒對馬國 】【 對馬國⇒一大國 】【 一大國⇒末盧國 】それぞれの渡海に【 T時間以上 】を消費したことから【 千餘里 】と記載したと思われます。

では各区間の渡海に消費した時間を計算して見ましょう。

∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵釜山┃
∵泗川∵∵∵∵∵∵∵┏◎━┛
━◎狗邪國━━━━━┛~⇒ 2Kn
⇒~\~~~~~~~~~⇒ 2Kn
⇒~~\~~~~~~~~⇒ 2Kn
⇒~~~\5ノット~~~~ ⇒ 2Kn
⇒~~~~\~~~~~~⇒ 2Kn
⇒~~~~~◎對馬國~~⇒ 2Kn
⇒~~~~~↓~~~~~⇒ 2Kn
⇒~~~~~↓3ノット~~ ⇒ 2Kn
⇒~~~~~◎一大國~~⇒ 2Kn
⇒~~~~/2.5ノット~~⇒ 2Kn
━━━━◎末盧國━━━━━━━━
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵

潮の流れを平均2ノット ( 2Kn ) 手漕ぎの船の速度を4ノットとします。

狗邪國⇒對馬國は、右後方から潮流を受ける為に速度が増して平均5ノットで航行
對馬國⇒一大國は、真横から潮流を受ける為に減速して平均3ノットで航行
一大國⇒末盧國は、潮流に逆らって進む為に減速して平均2.5ノットで航行

【 狗邪國⇒對馬國 】 137km
【 對馬國⇒一大國 】 62km
【 一大國⇒末盧國 】 36km

各海峡の所要時間は、次のようになります。

【 狗邪國⇒對馬國 】 14 時間
【 對馬國⇒一大國 】 10 時間
【 一大國⇒末盧國 】 11 時間

**********

対馬海流の【 ヒント 】

数年前に北朝鮮から手漕ぎの小船を使って、脱北した一家が居ました。

この一家は北朝鮮の漁師で新潟を目指して航海したと述べていますが、一家が到着したのは新潟ではなく青森でした。

この距離から日本海の潮流を計算して見ましょう。

北朝鮮から青森までは、882kmです。

新潟から青森までは、389kmです。

この間に要した日数は【 5日=120時間 】ですが、家族交代で休まず漕ぎ続けたそうです。

北朝鮮から青森までは 4ノットで進み、新潟~青森まで 1.8ノットで流された事になります。

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まぐれも【 当り 】は当り

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 1月28日(木)17時54分30秒
  仮にマグレだったとしても、当りには違いありません。

畿内大和説者の殆どは【 邪馬壹 】を誤りとし【 邪馬臺 】を【 やまと 】と読んで、記紀に見える【 大和 】にあてています。

しかし女王の住む【 邪馬壹 】は、その方位や道里から判断すれば九州に在ったと考えるのが妥当でしょう

【 又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至 】

倭人伝には【 裸國 黒齒國 】の、種族の記載がありません。

魏志倭人伝で、その國に住む種族の記載が無い場合は、その國に住む人々は【 倭人 】と見なす、暗黙のルールがあります。

【 女王國以北の國々 】
1 對馬國 . . . 5 奴國
2 一大國 . . . 6 不彌國
3 末盧國 . . . 7 投馬國
4 伊都國 . . . 8 邪馬壹國

【 其餘 ( 上記 8國以外の女王支配 ) の 21 國 】
9 斯馬國
10 已百支國 . 20 華奴蘇奴國
11 伊邪國 . . . 21 鬼國
12 都支國 . . . 22 爲吾國
13 彌奴國 . . . 23 鬼奴國
14 好古都國 . 24 邪馬國
15 不呼國 . . . 25 躬臣國
16 姐奴國 . . . 26 巴利國
17 對蘇國 . . . 27 支惟國
18 蘇奴國 . . . 28 烏奴國
19 呼邑國 . . . 29 奴國

【 旁國 】
30 狗奴國

これら 30國には種族の記載が有りません、したがって私たちは暗黙の了解にしたがって倭人の國と見なしています。

また【 裸 黒齒 】を【 ラ ・ カチ 】と読めることから【 奈良 河内 】に比定されます。

したがって大和の地は邪馬壹の飛び地だった可能性があります。

たとえば、女王國の東 ( 実際は東北 ) 渡海千餘里の地に在る國については【 皆倭種 】としか記載されていません。

また侏儒國についても単に【 小人の國在り 】としか記載されていません。

一方【 裸國 黒齒國 】については【 至 】と記載されていて、到着となっています。

船行一年とは船で行って一年というのですから、途中には多くの國が在るはずです。

そうした國には一切触れずに、突然【 至 】と記載されています。

以前から、こうした記述に不自然を感じていました。

今後は【 九州説 】あるいは【 畿内説 】にこだわらず、双方同時に研究する必要があると思います。

纏向遺跡から卑弥呼と同時代の遺物・遺跡が次々と発見されていますが、畿内大和が邪馬壹の飛び地だったとすれば、当然のこととうけとめられます。

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まぐれ当りの【 大和説 】

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 1月27日(水)12時06分40秒
  【 又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至 】

魏志倭人伝で【 種族 】が記載されない場合、その國の人々は【 倭人 】と見なすのが暗黙の了解になっています。

たとえば【 倭人 】以外の國ては、次のように掲載されています。

【 狗邪韓國 】
( 訳 ) 狗邪は韓の集落

【 女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 】
( 訳 ) 女王國から東北へ海を渡った千餘里の地に復國有り、皆倭人と同種族

【 又有侏儒國 在其南 人長三四尺 】
( 訳 ) その東南に侏儒國有り、身長は一メートル程度

また種族の記載の無い【 狗奴國 】も倭の一國です。

**********

以下は、倭の 30國です。

【 女王國以北の國々 】
1 對馬國 . . . 5 奴國
2 一大國 . . . 6 不彌國
3 末盧國 . . . 7 投馬國
4 伊都國 . . . 8 邪馬壹國

【 其餘 ( 上記 8國以外の女王が支配する ) 21 國 】
9 斯馬國
10 已百支國 . 20 華奴蘇奴國
11 伊邪國 . . . 21 鬼國
12 都支國 . . . 22 爲吾國
13 彌奴國 . . . 23 鬼奴國
14 好古都國 . 24 邪馬國
15 不呼國 . . . 25 躬臣國
16 姐奴國 . . . 26 巴利國
17 對蘇國 . . . 27 支惟國
18 蘇奴國 . . . 28 烏奴國
19 呼邑國 . . . 29 奴國

【 旁 ( その他=女王國以外 ) の國 】
30 狗奴國

中国の辞典に【 旁 】の意味は【 そのほか 】と記載されています。

**********

また【 裸國 黒齒國 】は【 今使譯所通三十國 】に含まれないとすれば、当然ですが女王の直轄領となります。

つまり邪馬壹國の【 飛び地 】ということになります。

この【 飛び地 】が後の大和政権の礎になったと考えれば【 大和説 】は一面では正しいといえるでしょう。

九州説の私が【 畿内大和説 】を立証しようとは、全く予想外の展開でした。

世の中は【 ワカラン 】ものだと、つくづく実感するしだいです、

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【 裸・黒齒國 】の倭人

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 1月26日(火)10時53分39秒
  【 又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至 】

女王國の東に裸國 黒齒國が有り船行一年で至ると記載されています。

【 裸 】は【 ラ 】と読み、現在の【 奈良 】と思われます。

また【 黒齒 】は【 カチ 】と読み、現在の【 河内 】と思われます。

私たちは【 黒 】を【 コク 】と読みますが、魏志倭人伝に記載されている【 黒 】とは全く異なる文字です。

私たちが知っている【 黒 】の源字は【  】ですが、上の二つの点を横【 一 】につなげたことから生じた文字です。

一方、魏志倭人伝に見える【 黒 】は、【 里 】を形声文字化したものです。

【 里 】は本来住居を意味する文字でしたが、これに【 火 ( カ )】を表す声符を加えて【 黒 】の文字を作ったのです。

したがって【 黒 】の上の部分 ( 里 ) は義符 ( 文字の意味 ) を表し、下の四つの点 ( ,,,, ) は声符ですから、読みを表すだけで意味はありません。

したがって倭人伝に記載されている【 黒 】は【 カ 】と読みます。

そして【 齒 】を私たちは【 キ 】と読みますが、中国では【 チ 】と読みます。

したがって【 黒齒 】は【 カチ 】と読みます。

魏志倭人伝は言うまでも無く【 倭人 】について述べられたものです。

したがって【 倭人 】以外が住む國では、どういった種族が住むか全て記載されています。

たとえば狗邪國の場合は【 韓 】、女王國の東の國の場合は【 倭種 】、そして侏儒國の場合は【 人長三四尺 】などと記載されています。

ところが【 裸・黒齒國 】については何も記載されていません。

種族の記載が無いと言うことは、この國の人々は【 倭人 】と言う事になります。

それにもう一國種族の記載されていない國があります。

それは【 狗奴國 】ですが、この國も倭人が住むと理解されます。

**********

以下は、倭の 30國です。

【 女王國以北の國々 】
1 對馬國 . . . 5 奴國
2 一大國 . . . 6 不彌國
3 末盧國 . . . 7 投馬國
4 伊都國 . . . 8 邪馬壹國

【 其餘 ( 上記 8國以外の女王支配 ) の 21 國 】
9 斯馬國
10 已百支國 . 20 華奴蘇奴國
11 伊邪國 . . . 21 鬼國
12 都支國 . . . 22 爲吾國
13 彌奴國 . . . 23 鬼奴國
14 好古都國 . 24 邪馬國
15 不呼國 . . . 25 躬臣國
16 姐奴國 . . . 26 巴利國
17 對蘇國 . . . 27 支惟國
18 蘇奴國 . . . 28 烏奴國
19 呼邑國 . . . 29 奴國

【 旁 ( そのほか ) 國 】
30 狗奴國
**********

この他に【 裸・黒齒國 】を加えると 32國になり、【 今使譯所通三十國 】と合わなくなってしまいます。

したがって【 裸・黒齒國 】は女王、邪馬壹國の直轄領と見なされます。

つまり【 裸・黒齒國 】は邪馬壹國で、後の【 大和 】につながるものと思われます。

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倭・韓の【 測量技術 】

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 1月26日(火)08時28分58秒
  魏志倭人伝に記載されている一里か【 137m 】になることは【 郡~狗邪韓國 】までの【 七千餘里 】によって算出することが出来ました。

では【 一里≒137m 】の精度はどの程度のものか調べてみましょう。

幸い一大國 は【 方可三百里 】とあります。

【 方可三百里 】には【 餘 】が含まれていないことから、精度検証にもってこいの数値です。

【 方 】とは【 円周 】のことです。

したがって一大國 の面積を円面積とした円周の長さは【 41.10km ( 方可三百里×137m )】になります。

一大國を壱岐に比定すれば、その面積は【 133.81K㎡ 】になります。

円面積【 133.81K㎡ 】の円周の長さは【 41km 】になります。

つまり壱岐の円周【 41km 】と、一大國 の【 方可三百里 ( 41.10km )】と完全に一致します。

この計算によって魏志倭人伝に記載された一里の精度が、1/100程度に達していることを理解して頂けたと思います。

では對馬國の【 方可四百餘里 】を検証してみましょう。

對馬國と一大國の比率は【 方可四百餘里 】対【 方可三百里 】と記載されています。

ところが壱岐の面積は【 133.81K㎡ 】に対して対馬の面積は【 696.29K㎡ 】ですから、対馬の面積は壱岐の 5倍以上にもなります。

対馬は上島と下島から成り立っています。

一大國の【 方可三百里 】に対して【 方可四百餘里 】に見合う島は、対馬下島と思われます。

対馬下島の面積は【 295.49K㎡ 】です。

この面積を使って對馬國の円周を計算して見ましょう。

円面積【 295.49K㎡ 】の円周の長さは【 60.92km 】になります。

【 60.92km÷137m 】=【 444.68里 】になります。

つまり【 方可四百餘里 】の餘里とは【 44.68里 】ということになります。

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倭人伝の【 一里 】

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 1月25日(月)15時27分5秒
  魏志倭人伝に記載されている一里が、現在の何メートルにあたるか計算して見ましょう。

好都合なことに郡から狗邪韓國まで【 七千餘里 】と記載されています。

郡を現在の【 ソウル 】付近とし、狗邪韓國を後の伽耶の在った【 泗川 】付近とします。

泗川 の南に勒島 ( ヌクト ) という小さな島が在りますが、この島から九州の特徴を持つ弥生時代の土器が、数多く出土しています。

また九州や山陰からも勒島式の土器が出土していて、縄文時代から日本と朝鮮半島を結ぶ重要な拠点だった事が知られています。

【 ソウル 】~【 泗川 】までの距離を、google earth を使って測定して見ました。

測定方法は海岸線に 180ポイントを置き、ポイント間を google earth のメジャーで計るという方法です。

その結果【 ソウル 】~【 泗川 】間の距離は、963.87kmということがわかりました。

**********

( 資料 ) 米国CIA, The World Factbook 2006
韓國の全海岸線の長さ、2413km

http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/9400.html

**********

したがって倭人伝の一里≒963.87km÷七千餘里=【 137m 】です。

『三國志』 卷三十 魏書三十 鮮卑
【 東西萬二千餘里 南北七千餘里 】

東西萬二千餘里とは【 遼東~敦煌 】までの距離ですが、直線距離で 2,755km あります。

『三國志』魏書 明帝紀
【 道路迴阻 四千餘里 】

荒れた道路 四千餘里とは【 洛陽~遼東 】までの距離ですが、直線距離で 985km あります。

『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳 倭人
【 計其道里 當在會稽 東冶之東 】
( 訳 ) 洛陽の都から會稽 東冶の東までを計れば、その道里 ( 萬二千餘里 ) に適合する。

その道里とは【 自郡至女王國萬二千餘里 】のことです。

【 當 】を中国の辞典で調べると【 適合 】とあります。

この文章には到達地【 在會稽 東冶之東 】は記載されていますが、出発地の基点が記載されていません。

このように基点が省略された場合は、帝都が基点になります。

そこで【 洛陽~寧波 ( 在會稽 東冶之東 )】までの直線距離は、992km になります。

東西萬二千餘里の【 遼東~敦煌 ( 2,755km )】と、三分の一の四千餘里【 洛陽~遼東 ( 985km )】とは比例しています。

しかし東西萬二千餘里の【 遼東~敦煌 ( 2,755km )】と自郡至女王國萬二千餘里の【 洛陽~寧波 ( 992km )】とでは、まったく比例していません。

【 自郡至女王國萬二千餘里 】は【 東西萬二千餘里 】の三分の一でしかありません。

つまり倭人伝の一里は、漢の一里の三分の一になります。

漢の一里は【 410m 】ですから、その三分の一は【 136.6m 】ということになります。

【 ソウル 】~【 泗川 】までの【 七千餘里 】から計算した【 一里≒137m 】と等しくなります。


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◎∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓~~~~
洛\∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~~~~
陽∵\∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓~~~~
∵∵∵\∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~~~
∵∵∵∵\∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓~~~
∵∵∵∵∵\∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~~
∵萬二千餘里\∵∵∵∵∵∵∵∵┏┛~~~
∵洛陽~寧波∵\∵∵∵∵∵∵┏┛~~~~
∵∵までの距離∵\∵∵∵∵┏┛~~~~~
∵∵∵∵∵∵∵∵∵\∵∵∵◎上海~~~~
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵\∵┏┛~~東シナ海
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵\┗┓~~~~~~
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵\┗┓~~~~~
∵∵∵∵∵∵∵∵∵東冶山▲\┃~~~~~
∵∵∵∵∵∵∵∵會稽東冶の東◎~~~~~
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵寧波┃~~~~~

【 自郡至女王國萬二千餘里 】
【 計其道里 當在會稽東冶之東 】

http://www2.ocn.ne.jp/~wajin/

 

【 邪馬壹 】は【 ヤマト 】

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 1月25日(月)08時37分3秒
  【 邪馬壹 】を何と読むかについて考えてきましたが、結論としては【 ヤマト 】に落ち着きました。

その理由を説明しましょう。

中国の辞典で【 壹 】を調べたところ次のように記載されていました。

1.一的大写⇒一の大文字
1.(形声。 ⇒形声文字

壹 - 龍維基
http://www.longwiki.net/%E5%A3%B9

つまり【 壹 】は【 形声文字 】で【 一の大文字 ( 一の仮借 )】ということになります。

**********

か‐しゃ【仮▽借】

漢字の六書(りくしょ)の一。
音はあるが当てるべき漢字のない語に対して、同音の既成の漢字を意味に関係なく転用するもの。

**********

漢字の 90%、つまり殆どは【 形声文字 】に属しています。

そして【 形声文字 】とは、義符 ( 文字の意味を表す部分 ) と声符 ( 文字の読みを表す部分 ) から成り立っています。

例えば【 至 】は象形文字で【 地面に矢が突き刺さった 】形を現しています。

この象形文字の【 至 】を形声文字にしたのが【 到 】です。

【 到 】は象形文字 ( 義符 ) の【 至 】と声符【 り ( 刀 )】から出来ています。

声符【 り ( 刀 )】の音は【 トゥ 】です、したがって【 到 】の読みは【 ト 】になります。

さて【 壹 】の声符は【 豆 ( dou4 )】そして義符 ( 文字の意味 ) は【 士+冖 】になります。

豆 - 龍維基
http://www.longwiki.net/%E8%B1%86

上のホームページで、スピーカのアイコンをクリックすると中国語の発音が聞けます。
中国のホームページのために、ダウンロードに数秒かかります。

【 壹 】の声符は【 トゥ 】です、したがって【 邪馬壹 】は【 ヤマト 】と読む事になります。

では何故、私たちは【 壹 】を【 イチ 】と読むのでしょうか ?

【 壹 】を私たちは【 数字の一 】と認識しています。

【 壹 】の本来の意味は【 数字の一 】ではありません、これについては後で説明します。

【 数字の一 】の大字としての【 壹 】の読みは【 イチ 】になります。

これは文字の【 仮借 ( 借字 )】のルールに従ったからです。

【 仮借 ( 借字 )】のルールについての、良い例があります。

**********

 漢書 高帝紀
【 高祖爲人隆準而龍顔 】
( 訳 ) 高祖は鼻が高く 而して額が広い

この文章に【 服虔 ( フッケン )】という人が注釈を行っています。

【 服虔曰準音拙 】
( 訳 ) 服虔曰く 準 ( ジュン ) の音は拙 ( セツ )

**********

服虔は、本来は【 拙 】と記載すべきところを【 準 】を用いた ( 仮借した ) したがって、この場合【 準 ( ジュン )】は【 拙 ( セツ )】と読みなさい。

このように述べています。

http://wajin3.web.fc2.com/keiseimoji/

上のホームページに【 放送大学 】の一部が置いてあります、参考に観てください。

では【 壹 】の本来の意味は何だったのでしょう。

【 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬 】
( 訳 ) 掖邪狗等は率善中郎將印綬を一同 ( 壹 ) に賜り、お礼の儀式 ( 拜 ) を行う。

『漢書』 卷二十八下地理志第八下(抄) 自呉至黄支
【 自初為郡縣 吏卒中國人多侵陵之 故率數歳壹反 】
( 訳 ) 初めて郡縣と為して以来、中国人の兵卒・官吏は陵 ( 墓 ) を荒らす。
________故に数年の間、中国の総大将に ( 地元民は ) 一同 ( 壹 ) で逆らう。

卒=兵卒
吏=官吏

【 壹 】の本来の意味は【 一同 】あるいは【 等しく 】と言う意味です。

このときの【 壹 】の読みは【 ト 】になります。

http://www2.ocn.ne.jp/~wajin/

 

漢代の【 測量技術 】

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 1月24日(日)12時05分53秒
  漢代の【 測量技術 】の精度を測る格好の文章が有りますので、ご紹介しましょう。

『漢書』 卷二十八下地理志第八下(抄) 自呉至黄支
【 自合浦徐聞南入海 得大州 東西南北方千里 武帝元封元年略以為tan[扁イ旁]耳 朱崖郡 】

上の文章の【 イ耳 朱崖 】とは倭人伝に記載されているものと同一です。

【 所有無與イ耳 朱崖同 】

【 大州 ( イ耳 朱崖 )】は【 東西南北方千里 】とあります。

もし【 方 】の意味が【 正方形の一辺の長さ 】とすれば【 東西南北 】は余計な文章となります。

【 方 】の意味は、中国の辞典【 方言集匯 ( 方言全集 )】に【 圓( 円 )】とあります。

方 - 龍維基
( URL に貼り付けてください、中国の辞典にジャンプします )
http://wajin3.web.fc2.com/mht/ho_test.mht

【 イ耳 朱崖 】とは、現在の【 中国南部 ( 南シナ海 ) の海南島 ( ハイナントウ )】のことです。

海南島 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%8D%97%E5%B3%B6

【 海南島 】は卵形をした楕円形で面積は、32,200k㎡です。

なぜ【 東西南北 】と記載したかいえば、【 海南島 】が楕円形をしていた為に【 東西 ( 六百里 ) 南北 ( 四百里 )】の合計里数を述べたかったからです。

したがって【 千里 】を半分にすれば、円の直径 ( 五百里 ) が得られます。

さらに半分 ( 二百五十里 ) にすれば半径が得られます。

【 半径×半径×3.14 】で円の面積、つまり【 海南島 】の面積が得られるはずです。

漢代の一里は約 410mです、では早速計算して見ましょう。

【 ( 250里×410m )×( 250里×410m )×3.14 】=32,989k㎡

【 海南島 】の現在の面積は、32,200k㎡ですから、実に見事な精度といえます。

ついでに【 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 】の【 徑百餘歩 】について計算して見ましょう。

『晋書』粛慎伝
【 以布作 [ 扁衣旁澹 ]  徑尺餘以蔽前後 】

( 意訳 ) 一尺余り ( 約 50㎝ ) の布で身体の周囲 ( 徑 ) の前と後を覆い隠し、丈は短く作る

[ 扁衣旁 ] は古代の丈の短い服のことです。

上の文章によれば【 徑 】とは【 周囲 】という意味になります。

現在の【 径 】の意味は【 直径 】ですが、古代では【 円周 】の意味だったようです。

仮に【 一歩 】を 50cmとした場合、【 徑百餘歩 】は円周 50m程度となります。

直径にすれば、20m程度という事になります。

つまり卑彌呼の墳墓は、直径 20m程度ということになります。

同時代の韓の王墓もその程度の大きさですから、決して小さいとは言えないでしよう。

http://www2.ocn.ne.jp/~wajin/

 

【 邪馬壹國 】の比定

 投稿者:wajinメール  投稿日:2010年 1月24日(日)11時52分49秒
  【 邪馬壹國 】は【 熊本平野 】にに比定しています。

この事を証明するために、当掲示板を利用させていただきます。

ご説明は次の順路に従います。

┏ ┳ ◎. 帯方郡庁 ( ソウル付近 )
┃ ┃ ↓ . ( 七千餘里 ) ( 964km )
┃ ┃ ○. 狗邪韓國 ( 釜山付近 )
┃ ┃ ↓ . ( 千餘里 ) ( 137km )
┃ ┃ ①. 對馬國 ( 対馬・下島 )
自 萬 ↓ . ( 千餘里 ) ( 62km )
郡 七 ②. 一大國 ( 壱岐 )
至 百 ↓ . ( 千餘里 ) ( 36km )
女 餘 ③. 末盧國 ( 伊万里 )
王 里 ↓ . ( 五百里 ) ( 68km )
國 ┃ ④. 伊都國 ( 前原 )
萬 ┃ ↓ . ( 百里 ) ( 14km )
ニ ┃ ⑤. 奴國 ( 博多 )
千 ┃ ↓ . ( 百里 ) ( 14km )
餘 ┗ ⑥. 不彌國 ( 香椎 ) .━┳━┓
里 ∵ ↓. 水行二十日∵∵∵千∵┃
┃ ∵ ⑦. 投馬國 ( 久留米 ) .四∵┃
┃ ∵ ↓. 水行十日∵∵∵∵百 ( 192km )
┃ ∵ ↓. 陸行一月∵∵∵∵里∵┃
┗ ━ ⑧. 邪馬壹國 ( 熊本 ) ┻━┛


~~┃∵∵∵∵楽浪郡∵∵∵∵∵∵┃~~
~~┣━━━━━━━━━━━━━┫~~
~~┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~┌◎帯方郡庁∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~↓┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~└┐┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵帯方郡の領土∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~┌┘┣━━━━━━━━━━━┳┛~~
~↓┏┛∵∵∵∵韓の領土∵∵∵┃~~~
~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~~
~↓┃∵方可四千里∵狗邪┏━━┛~~~
~↓┃∵∵∵∵∵┏━○━┛~~~~~~
~↓┃∵┏━━━┛┌┤~┏┓~~~~~
~↓┗━┛┌→→→┘↓~┃┃~~~~~
~└→→→┘~~~~↓┏┛┃~~~~~
~~~~~~~對馬國├①┏┛~~~~~
~~~~~~~~~~↓┗┛対馬下島~~
~~~~~~~~~~↓┏┓~~~~~~
~~~~~~~一大國├②┛壱岐~~~~
~~~~~~~~~~↓~~~~~~~~
~~~~~~~~~~↓~┏━┓~┏━━
~~~~~~~~┏┓↓┏┛∵┗━┛⑥∵
~~~~┏━━━┛∵↓五百里∵∵/↓∵
~~~┏┛∵∵∵∵∵③→→④→⑤百不∵
┏━━┛∵∵∵∵∵∵末∵∵伊百奴里彌水∵
┛∵∵∵∵倭國∵∵∵盧∵∵都里國∵國行
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵國∵∵國∵∵∵↓二
∵∵┏━┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵南十
∵┏┛~┗┓∵∵∵水行十日∵∵∵∵至日
┏┛~~~┗┓∵∵┌←←投馬國⑦←┘∵
┃~~~~~┃金∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~~~~~┃峰∵南∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~有明海~┃山∵至∵∵∵∵∵∵▲阿蘇
┃~~~~~┃▲∵└→→→→→⑧∵∵∵
┃~~~~~┃∵∵∵陸行一月∵邪馬壹國
┃~~~~~┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~~~~~┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~~~~~┃∵◎狗奴國∵∵∵∵∵∵∵

http://www2.ocn.ne.jp/~wajin/

 

新年明けましておめでとうございます。

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 1月17日(日)10時32分15秒
  今年もどうぞよろしくお願いします。
 早速ですが、神奈川徐福会では、昨年までの「幻の富士古文献」を読む会を終了し、本年は、小著「消された古代東ヤマト」(蓬莱の国)の本を読む会を開催します。原則として奇数月の第3水曜日の15時から、神奈川県民センター7階の会議室で開催の予定です。
 1月は、20日(水)15:00~17:00の予定で、担当の方が説明してくれます。
 よろしかったらご参加ください。
 

徐福と日本人のルーツに関する考察

 投稿者:maeda  投稿日:2009年11月25日(水)12時00分8秒
  山本紀綱著「徐福 東来伝説考」(謙光社昭和50年8月発行)を読み返した結果、記録にとどめたいことを、以下に挙げる。

1.青木繁著「日本民族渡来考」で、藤井尚治氏が「徐福は、イスラエルの亡命者であるユダヤ人ジョセフであるとし、彼をリーダーとするユダヤ人の一派がアジアの東辺に移住し、中国を経て日本に渡来したとする説を紹介した。その中で、藤井氏の着想は珍説の部に属するであろう、としながらこの考え方が学説の進展に大きなヒントを与え、大いに意義があるともいえよう」と述べている。
2.衛挺生博士(前燕京大学教授)説:「神武天皇は秦人徐福である」(1950)、日本建国の年をBC203年とした。
3.中国には古くから、日本人は呉の太伯であるとか、秦の徐福の子孫などという考え方が有力に伝わっている。
三国志の魏書の中に引用される「魏略」逸文の中の倭人の条に、「倭人自謂太伯之後」という文句があるが、これが原典とみられる。

1,2、の説に対して、これらはかつて我が国で、「ジンギスカンは源義経なり」という奇抜な説がおこり、一時世人の注目を浴びたことと思い合わせて、面白い説であると思うが、一般からまともに取り上げられない公算が大である、としている。
 しかし、このジンギスカン義経説も最近再び取り上げられ、裏付け資料も豊富となり、可能性なしと言えない状況になっている。
 

サトルエネルギー学会

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 6月 8日(月)17時47分55秒
編集済
   意識科学研究会第3回シンポジウムのご案内

 時下益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。
 意識科学研究会におきましては、年1回中規模のシンポジウム(2009.6.20)を企画しております。
 本年は、ヒーリング最新情報に焦点を当てた、第3回シンポジウムを開催いたしますので、ご案内いたします。
 今回の第3回意識科学研究会シンポジウムは、芝公園福祉会館(130人定員)にて開催されます。
 サトルエネルギー学会会長・帯津先生、向後先生が登壇いたします。
 奮ってご参加ください。

尚,参加方法詳細は次のHP添付資料をご参照ください。

http://www.subtle-eng.com/bunkakai/ishiki/2009_0620sympo.pdf

          記

第3回意識科学研究会シンポジウム(20090620)

 開催日時:2009年6月20日(土)13:15~16:30
 会  場:港区芝公園福祉会館A,B会議室(130人定員)
 テーマ :霊的医療と魂の進化

 内  容:基調講演1 発表者;向後利昭氏 医療法人愛聖会理事長
            テーマ;プチスピ子育て論 ~揺りかごから来世まで

      基調講演2 発表者;帯津良一氏 サトルエネルギー学会会長
            テーマ;霊性に向かう医療と養生

      パネル討論(霊的医療と魂の進化)
      パネラー 向後氏、帯津氏と研究委員(平澤氏、鈴木氏、米田氏)
 

神奈川徐福研究会

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 5月10日(日)12時00分4秒
  神奈川徐福研究会の最近の行事をご案内いたします。

1.神奈川徐福会主催の「幻の富士古文献」を読む会
 開催日:5月20日(水)15:00~約2時間
 場所:神奈川県民センター会議室 7階
 今回は、小生の発表で第6章 富士吉田-日本列島統治のはじまりと天孫御誕生の地 について話する予定です。

2.バスツアー
 開催日:5月25日(月)横浜駅前天理ビル横集合7時45分
 目的地:富士山西麓の高天原伝承地
     西富士オートキャンプ場着 10:00予定
 橘高さんのご案内で、旧跡を回る予定。

 以上 宜しければ、ご参加ください。
 

クリスタル・チルドレンと地球防衛

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 4月11日(土)15時38分3秒
   最近、地球防衛軍著「知られたくなかった2012創造説」(しょういん社、2009年3月11日発行)という本を、鳩山由紀夫さんが帯書にコメントしているので、気になって読んでみました。

 これまでの歴史の中で、人間がしてきた行為(争いや、犯罪、謀略など)は愚かであり、それでありながら、宇宙に行ける技術を持つ。そして「愚かさ」とともに宇宙に進出するとなったら、これまで保たれてきた宇宙の平和と調和にどのような影響を及ぼすか分からない。人間は高度な医療技術、遺伝子操作やクローン技術、人工降雨など天候まで操作する技術を確立されつつある。

 「自分たちには何でもできる」と思い上がった人間の存在の危険性に、「創造主」は地球の崩壊に意識をつないだ。それで、何年間かで人間を試し、どうにも変わらないようであれば、地球の崩壊が実現することになった。その期限が2012年で、人間が相変わらず愚かなまま、何の変化も見せなければ、すぐに地球の崩壊がスタートするというのである。

 このメッセージをもらったのが、創造主と繋がる霊能をもった「先生」です。先生は、成人した娘を持つ母親(50歳以上)です。

 先生は、何度も地球の救済を願い出て、「創造主」の怒りの鉄槌をかわしてきたのですが、期限が近づいてきています。ただ、先生は、一つだけ救う方法があると云うのです。
 それが、ある能力を持つという、世界各地に住む12人の「クリスタル・チルドレン」(神に選ばれし子供)を探しだし、その力を借りることと、クリスタルを用いた地球の結界を張ることだと言います。先生が、人間の延命を熱心に願ったことで、創造主がラストチャンスを与えたそうです。

 それで、先生と娘さん、オレ(40過ぎの男性)とその協力者の4人(地球防衛軍)が、霊感を頼りながらの「クリスタル・チルドレン」の捜索と、結界張りの行動に出る、という筋書きです。

 この本の結末(2009年初め)の段階では、クリスタル・チルドレンは、南太平洋の小島で1人見つかったでけで、まだまだ、先は長いのですが、著者はこの段階で、情報を流して、広く協力を求めようという意図のようです。

 結局、時間的に無理と分かれば、世界の縮図である、日本において、クリスタルチルドレンを見つけ、結界張りが行われることになるのでしょう。

 不思議な話ですが、この話で霊能者を含む自称「地球防衛軍」に任せるだけでは、いけないのでしょうね。

 未来は、不確定。分裂するという見方があります。

 結局は、自らの意識が、その人の未来の現実を創っていくと思います。
 

意識の科学(2)

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 4月 6日(月)11時24分48秒
  ジョセフソンの論:

 「科学におけるいくつかの大きな革命は以前にもあった。サイコキネシスの存在が科学を変革に導くから(科学として取り扱うのは間違っている)という申し立ては、サイコキネシスの存在を否定する根拠にはならない。
 必要とするのは、科学を覆すことではなく、意識(心の問題)を考慮に入れるように科学の枠を拡張することなのだ。」

「水が記憶をもつわけはない、という一般的だが間違った信仰がある。分子の動きが、その水の中のどんな記憶の痕跡も迅速に消し去ってしまうと思いこんでいる人々がいる。しかし実際はそうではない。液体はその情報が分子運動によって失われてしまうや否や、情報パターンを再生する機構を持っていることが知られている。しかし、科学的見解は化石化してしまっている。従来、ホメオパシーのような現象は概して非科学的とされてきたし、そのような信仰を科学的意識から消し去ることは殆ど不可能だ。」
「科学というものは、事実と理論だけではなく、科学の純潔を守ろうとする防衛機構の集まりを包含している。」
「心が物に影響すると物理学が台無しになる。だから超能力は存在しない」という論法は奇妙である」と指摘する。
「物理学者ベルの研究によって、量子論では、空間的に遠く隔たった物体同士が物理的に
”繋がっている”可能性が指摘されている。相補的な現実知覚は、生物がそのような、繋がり を原理的に有効利用することを可能にしている。」

 ジョセフソンのメッセージを理解した人達の意見
「心霊現象は、物理と矛盾せず、合理的な言葉で考えることができる。」
「超常現象に関する実験の多くは、正真正銘の現象を測定しているかもしれず、その理解こそが科学の目指すべきことである。」
 

意識の科学

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 4月 6日(月)10時55分43秒
  ジョセフソンの「科学は心霊現象をいかにとらえるか」(茂木健一郎、竹内薫訳・解説、1997.5、徳間書店)に書かれていることは興味深いので、少し引用してみたい。
「心霊作用が本当の効果であるらしいという事実は、科学にとってどんな意味を持つのだろうか?これらの現象は怪しげに見えるが、・・なんら怪しげではないのだ。心霊現象を扱うために科学を拡張するとしたら、どんなアイデアが必要だろうか?私は、観測者と非極在性が鍵を握ると考える。」
「量子力学の方程式を文字通り受け取るなら、宇宙が絶えず別々の枝に分裂していくことを意味し、その一つが我々が現実として知覚している宇宙と一致しているにすぎない。」
「このようにして、量子論では知覚する観測者が主役として登場する。もしかしたら、宇宙を観測する我々は、同時に選択者の役割を演じているのかも知れない。」
「量子論は自然界の究極の理論ではないが、さらに深い超量子論がある。霊媒は、量子レベルのランダムなエネルギーを自分の目的に向けて操ることができるかもしれない。量子レベルでは、遠隔作用を考えることがあるが、これは心霊能力の作用とうまく合致している。」
「以上のような見解は、憶測の域を出ないが、少なくとも、精神現象を徹底的に科学の枠組みの中に組み込むことだ。」

 このような観点から、精神現象(意識)を科学に組み入れていく必要性が、強調されています。
 

イワクラ学の構築と秦氏

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 2月26日(木)10時12分55秒
  秦氏は、嘗て朝鮮半島の伽耶から日本列島に渡来した人々であるとの意見が強かったが、その実はシルクロードの西の拠点「古代イスラエル」から、東の拠点「ヤマト」に移動してきた人々と考えらえれる。彼らは、海と陸のシルクロードを往来し、シュメールからインド、インドシナ、中国などの海洋民族の文化をもたらすとともに、陸路の中央アジア、チベット、中国内陸、朝鮮半島の文化を携えて、日本列島に定着した。しかも、古代イスラエルに置けるヤーヴェを奉ずる一神教の他、バール神やギリシャ神話を含む多神教も含めて持ち込むとともに、旧モンゴロイド系縄文人の自然崇拝の思想と習合した。そして、古代イスラエルのピラミッド、巨石、聖石崇拝が、古神道となって、日本の宗教を形成していったと思われる。
 秦氏の素性は、第一波は古代シュメール人として列島に定着した人々であろう。 彼らは、縄文文化をより洗練したものに変化させたのであろう。第2波は、中国経由の徐福一行の形をとって、弥生時代の文化を洗練し、深化させたと考える。第3波は、応神天皇の時代に、秦始皇帝の後裔「弓月君」をリーダーとする中国から朝鮮半島に住みつき暫くして、日本列島に移住した127氏族を含む、秦氏がその実体であろう。
いずれも、シュメールのジックラトウやエジプトのピラミッド、中央アジアの高山や巨石を信仰する人達の子孫であり、日本のイワクラ信仰と習合したと思われる。これらの証拠は、日本各地の山頂の巨石遺跡に残されている。その後、稲荷神社を始めとする日本特有の神社のご神体となるピラミッド型の山や巨石、聖石などに変わっていったのであろう。
最後に、ピラミッド型の山頂や、巨石や聖石は、特殊能力を持つ人にとって、宇宙との情報交信のツールとなることが考えられ、秦氏にはそれらの能力を持つ人が多い可能性がある。今後のイワクラ学構築の重要な研究課題となるものと考える。
 

2.久慈力氏の「巨石文化ミステリー」に関する新説

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 2月26日(木)09時55分41秒
  久慈力氏の近著「日本古代史ミステリー」(㈱学習研究社、2008年12月発行)の第48章「巨石文化ミステリー」には、非常に参考になる情報が散りばめられている。その説の一端を紹介してみると、渡来人の文化、特に蘇我氏、秦氏の文化の特徴として、石の文化を挙げることができるということである。その例として、飛鳥地方の「酒船石遺跡」や「亀形石造物」などは、ペルシャ系渡来人のゾロアスター教の祭祀施設と見ていることが挙げられる。また、飛鳥の酒船石丘陵は、人造の丘であり、ハオマ酒(アフラ・マズダの述べるハオマ草や山羊の乳を溝に流して調合する酒)を作る施設、聖水を作る施設、神々に祈りを捧げる場所をもつ「人工のピラミッド・聖塔ジックラトウ」であったという。
 一方、北九州豊前の宇佐地方は、秦氏の居住地で、秦王国と呼ばれたという説がある。豊前市にある求菩提山には、イスラエル系秦氏の山岳信仰や巨石信仰が顕著に現れているらしい。 この山には天狗伝説があり、鬼神社には八天狗像があり、日本に上陸した古代イスラエル八支族を表しているという。天狗たちは修験者がつける兜巾を付けているが、これはイスラエル人が儀式のときに頭につけるヒラクティリーに酷似しているという。求菩提山の山頂には、多くの磐座があり、イスラエル系の石工の手が加わったと見られるものもあり、モーセの十戒の舞台となったシナイ山に見立てて造られたものと考えられている。
 その他、日本各地に見られる山頂の磐座は、イスラエル系の渡来人である秦氏が、彼らの母国の聖なる山を入植地に再現しようとしたものと考えられている。その最たる例は、信濃の諏訪神社前宮のご神体となっている守屋山であろう。守屋山はアブラハムがイサクを神ヤーヴェに捧げるために登った山(モリヤの山=エルサレム)と同じ発音を持っており、山頂に祭壇状のイワクラを有している。その他例えば、青森県の戸来村周辺の十和利山、十和田山、戸来岳、大石神巨石群、十三湊周辺のモヤ山などの巨石信仰、ピラミッド信仰などがある。 岩手県の七時雨山、姫神山、早池峰山、五葉山にも頂上に磐座が形成されており、頂上を人工的に加工したピラミッドであると考えられている。 奈良県橿原市の香具山、畝傍山、耳成山、三輪山も多くの磐座を形成するピラミッドの山と考えられる。
 久慈氏の巨石文化に対する考え方は、次のようなものである。即ち、メンヒル(立石)、ドルメン(テーブル形石)、ストーンサークル(環状列石)、ストーンヘンジ(環状建造物)などは、世界各地にみられ、その建設目的は、天体観測所、墳墓、宮殿、祭場、集会場などを挙げることができる。その起源は、地理的にはシルクロードからメソポタミアまでに亘り、年代的には、紀元前十数世紀まで遡る。これらの巨石信仰や石造技術をもっていた人々は、古代のシュメール人やエジプト人、イスラエル人などで、彼らは、エジプトのプント船やシュメールのシュメール船、イスラエルのタルシシ船などによって、ペルシャや西域の陸のシルクロードを経由して、巨石や聖石信仰と石造技術を地中海沿岸やアジア、中国、朝鮮、日本に持ち込んだものと考えている。
 巨石信仰は、イスラエル民族(秦氏)だけのものではないが、特にこの民族にはその傾向が強い。石の加工技術も優れ、都市、土木施設の建設、宮殿、神殿の建設、柱や像の建築に優れた技を示した。それはエジプトでの奴隷時代に培われたものと考えられている。飛鳥地方に渡来していたペルシャ人の石加工技術に古代イスラエル人のそれが濃厚な影響を与えたことは十分考えられるという。
 

イワクラに関する秦氏視点からの考察

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 2月26日(木)09時53分55秒
  イワクラ学会が2004年春に設立されて約5年が経つ。イワクラの起源とその意義、役割については種々語られており、そろそろイワクラ学の構築が必要との意見もある。筆者は学会設立の発起人の一人となった経緯があるが、まだ、確たる理論体系をもっているわけではない。ただ自分が現在住んでいるところが、神奈川県秦野市であることも関連して、秦氏とイワクラの関係について関心を持ってきた。というのも、どうやら、秦氏の文化の特徴として、石の文化を挙げることができるようなのである。 そこで、秦氏とイワクラに関連して、最近入手した、次の3つの説を取り上げて考察してみたい。
1)吉備のハタ氏の磐座に関する佐藤光範氏の研究結果、
2)久慈力氏の巨石文化ミステリーの新説、
3)イワクラ信仰に関する徐福と秦氏の役割(本論者説)

1.吉備のハタ氏の磐座に関する佐藤光範氏の研究結果
 奇しくも、2009年1月31-2月1日にかけて、イワクラ学会は、イワクラツアーin岡山を開催したが、そのテーマは、「ハタ氏の磐座」を掲げ、吉備の磐座を探索するものであった。
 これらの日々、主催者代表の佐藤光範氏は、熱意をこめて、吉備の秦地区を含む各種の磐座を紹介してくださり、大変勉強になった。その詳細については、ご当地の方の紹介にお任せするが、若干要点に触れておきたい。即ち、案内された秦(ハタ)氏の磐座の多くは、稲荷神社のご神体となっており、信仰の対象であるということである。
もっとも中心的な磐座は、正木山頂上の「麻佐岐神社」に鎮座するご神体石の磐座であろう。作山古墳や造山古墳が、この神社を遥拝するように配置されていることから、古墳時代にはすでに信仰の対象となっていたことが考えられる。因みにこの神社のご祭神は「大国魂神」という。
 佐藤氏は、秦氏と磐座と銅生産と地名を関連付けた研究をライフワークとされており、正木山山系に銅鉱採掘の跡があるとして、磐座は、銅精錬技術をもった弥生時代にさかのぼる秦氏の信仰の対象であったのではないかと考えておられる。吉備の巨大古墳を造り、ヤマト国家の形成に大役を演じた吉備族は秦氏であって、磐座を拝む神道を形成してきたというわけである。
 尚、秦(ハタ)氏については、日本書紀に、応神天皇の御代に初めて、秦始皇帝の子孫・弓月君一行が朝鮮半島から渡来し、仁徳天皇の時、波陀の姓を賜ったとの記述があることから、かれらが秦氏の祖であるとの一般認識が形成されているようである。しかし、佐藤氏はこれに対して異議を唱えておられる。 つまり、吉備の秦原廃寺が、塔の礎石を伊予部山の磐座の真北に置き、弥生時代からの信仰が継続していることは、弥生時代からハタ氏が日本列島に居た証拠であるというわけである。まさに、弥生時代の楯築墳丘墓は、ハタ氏のお墓で、日畑の人が守っているのである。
 

サイキック考古学と邪馬台国

 投稿者:maeda  投稿日:2008年 8月25日(月)14時19分4秒
編集済
   最近、リモートビューイングで有名なアメリカのFBI超能力捜査官「マクモニーグル」の助けを借りて、邪馬台国の実情を探る動きがある。
 権藤正勝著「邪馬台国発見」(学研2008.8.19発行)が、現在までのその成果を発表した書物であるが、邪馬台国畿内説を支持するものである。
 卑弥呼の居たところは、夏場は三輪山の近く、桜井市の鳥見山であり、冬場は、山口県の豊田町に相当するところに居たという。卑弥呼の居場所は移動していた。その墓は豊田町の安徳天皇陵墓参考地にあたり、前方後円墳と推定されている。
 北九州も卑弥呼の所属する部族が、統治していたようであるが、直接の居所ではない。
 邪馬台国は、ヤマト国と呼ばれたそうで、ヤマイチ国ではない。

 邪馬台国連合は、九州、中国地方、畿内、東海地方を含む、日本列島の西半分をカバーしている。当然、東三河は、邪馬台国連合国の一部をなしている。
 邪馬台国と戦った、狗奴国はどこかというと、糸魚川ー静岡線より東の毛奴国をさす。
 そうすれば、東三河が、毛奴国との戦いの重要拠点となり、卑弥呼も巡視に来てとどまったことが考えられる。

 リモートビューイングで、過去の歴史が確定するとなると、歴史学者はこれからどうなるのだろうか。
 

「失われた日本古代皇帝の謎」

 投稿者:maeda  投稿日:2008年 8月25日(月)12時05分53秒
編集済
  豊橋在住 さん

 ようやく、斉藤忠著の「失われた日本古代皇帝の謎」を、読みました。併せて「倭国と日本古代史の謎」も。
 同氏は、古田武彦氏の「倭国北九州説」をベースとし、岩井の乱以降も大宰府に俀(タイ)国の首都があり、アメノタリシホコが天子と称し、隋と交流していたと唱えています。
 6-7世紀の外交は、ほとんど九州の俀(タイ)国が中心となって行っていたということで、奈良の大和の役割は、殆どなかったという説だと思います。

 私は、この説は隋書を元に論じられていながら、根本的な間違いがあると思います。つまり、倭国と俀国は別だとしているのですが、隋書の原文には、「倭国伝」ではなく「俀国伝」としつつも、内容は、魏志倭人伝や後漢書の倭国と同じものをさしているのです。倭奴国も俀奴国となっています。
 何より、俀王が住むところは、船により、筑紫を経て東に10余国を通り、海岸に到達したところで、隋の使者輩世清は、俀王に迎えられたことになっています。
 つまり、俀国(=倭国)は、九州より遥か東方の、海岸に近い倭国であることは確かです。

 一方、北九州の太宰府が、遠の朝廷と呼ばれ、倭国の重要な外交拠点であったことは、了解できます。聖徳太子のいた時代に、有力な高官が太宰府にいたこともあるでしょう。
 そこで、小生は、倭国の真相で、九州に聖徳太子の役割を一部担う人が居たという仮説を立てています。しかし、首都がそこにあったというのは言いすぎではないかと思います。
 他方、東三河は、東の遠の朝廷と呼ばれ、奈良から見て東国の重要な政治拠点となっていたことが考えられます。その地に、非常に多くの聖徳太子伝承があるのです。これについては、本HPの別の掲示板をご覧ください。
 また、九州邪馬台国説を否定する、強烈な本が刊行されました。これについては、別途記載します。

http://http:/

 

(無題)

 投稿者:maeda  投稿日:2008年 8月22日(金)10時26分11秒
  不思議現象を説明できる「新しい世界像を求めて」という合宿討論会があります。
ご参加希望の方は、以下のHPにアクセスください。

第26回生命情報科学シンポジウム
http://wwwsoc.nii.ac.jp/islis/sjis/islis.htm
 

(無題)

 投稿者:maeda  投稿日:2008年 8月 8日(金)11時00分11秒
  斉藤忠著の「失われた日本古代皇帝の謎」については、まだ読んでいません。
書籍取り寄せ中ですので、追ってコメントします。
ただ、小生の「聖徳太子論」では、聖徳太子は3人のキャラクターの合成とみており、一人は、九州と関係があると思っています。
 

如何思われますか?

 投稿者:豊橋在住。  投稿日:2008年 8月 6日(水)01時32分30秒
  以前より、日本書紀について疑わしく思っていました。
最近、斉藤忠著の「失われた日本古代皇帝の謎」なる本を読みました。
なるほど、そういうことかと納得する部分が多かったのですが
前田さんは斉藤氏の著書に関し、如何思われますでしょうか?
 

意識科学研究会

 投稿者:maeda  投稿日:2008年 7月24日(木)10時32分48秒
  不思議現象と意識に関する発表会があります。
興味があればご参加ください。

http://www.subtle-eng.com/bunkakai/ishiki/2008_0816akasaka_maeda.pdf
 

ダライラマ14世こそ仏典に預言された弥勒菩薩です

 投稿者:アーナンダ  投稿日:2008年 4月11日(金)09時36分50秒
  ダライラマ14世こそ仏典が 末法の世に現れ人類を救うと預言
された弥勒菩薩に間違いありません ダライラマ14世こそ仏典
が末法の世に現れ人類を救うと預言したあの弥勒菩薩なのです
 

「イジメ撲滅」 

 投稿者: あだち  投稿日:2008年 3月22日(土)16時35分40秒
      失礼いたします
      「いじめ・勝利法則」 のご案内です
                 ご笑覧ください。
      http://www4.ocn.ne.jp/~kokoro/
 

風神

 投稿者:凡太  投稿日:2007年11月28日(水)15時03分18秒
  伊勢神(豊受太神)、天御中主尊・・・は大自然創世太元神の天神(風神)。
豊・受(⇒宇気)太神は天神(太神)。

「穂の国」とは大自然の風(大宇宙、大天空、大虚空、大気・・・)に由来する雄大な地名?
摂ホームページ「古代之風(http://kaze.world.coocan.jp)」ご笑覧くだされば幸甚に存じます。

http://kaze.world.coocan.jp

 

伊勢・外宮先祭

 投稿者:maeda  投稿日:2007年11月19日(月)11時50分5秒
   今年10月16日に伊勢神宮の初穂曳きの祭りを見にいきました。
 新嘗祭に用いる今年収穫した新米を奉納するお祭りですが、彩り豊かに飾られた木船に、米や酒を積んで、何百人もの氏子が、エンヤー、エンヤーと一斉に掛け声をかけながら舟を曳く情景は、まさに心をうつものでした。
 ところで、この祭りは、内宮のアマテラス大神に食事を奉納する元になる行事なのですが、その前に食事を提供する「豊受大神」を祭る「外宮先祭」というしきたりがあることに関心がもたれます。
 伴とし子著「トヨはアマテラスだった」によると、「海部氏勘注系図」に、古記にいうとして。「豊受大神」はまたの名を「天照豊受皇大神」「天照大神和魂」「豊受姫命」「国常立尊」「天御中主尊」とあるそうです。
 また、「丹後国一宮深秘」には「豊は、国常立尊、受は、天照大神なり、両宮の御名なり。・・ご宣託にいはく、我が祭奉仕のとき、まず豊受皇太神神宮を祭り奉るべきなり。」とあるそうです。
 つまり、豊受大神は最高の神、天御中主命であり、アマテル大神であり、その神の具象が鏡であるということで、外宮先祭が当然ということのようです。
 

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